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  『今晩は女子ボクシングファンの皆さん。今夜は女子スーパーバンタム級注目の一戦、5位 堀聡美vs7位 磯崎彩夏の戦いをお送りいたします。』
 
 テレビからリングアナウンサーのやや興奮したような声が流れてくる。TV画面には入場してくる両選手が映し出され、会場の熱気までもが伝わってきた。山神裕子は、そんな画面を、まだ体中に残る痛みと敗北の屈辱感に耐えながらじっと見つめていた。

 『この試合、赤コーナー堀選手は、3位の星野真奈美選手に痛恨のKO負けを喫しての再起戦、対する磯崎選手はデビュー以来5連続KO記録更新中です。前の試合で拳を痛め、しばらくリングから遠ざかっていましたが、今回は復帰第一戦になります。』リングアナウンサーが説明すると、『ええ、磯崎選手のパンチの破壊力は凄まじいですからね』すかさず解説者が付け加えた。『何しろ5KOのうち、3試合は相手を失神させるほどですから、このハードパンチがどれだけ復活しているか。そしてベテランの堀選手が、新鋭の磯崎選手に対して、どのように試合を組み立てていくかが見どころですね。KO決着必至の一戦です。』

 リング上ではレフリーによるチェックを終えた両者がコーナーに戻ったところだった。青コーナーの選手がアップになる。ネービーブルーを基調にしたリングコスチュームに身を包んだ引き締まった体つきの選手だ。ショートカットで、精悍な、いや正確には戦闘的ともいえる顔つきをしている。TV画面越しに、その鋭い視線が自分に向けられたような気がして、裕子は思わず自分の両膝をグッと握りしめた。
 この青コーナーの選手、磯崎彩夏は裕子にとって忘れられない選手だった。『磯崎彩夏 鴻嶽館ジム所属 宮城県出身18才。中学時代に全国空手選手権大会優勝。現在2段』裕子はこの選手のことについては誰よりもよく知っている。特にその破壊力と威圧感は身をもって経験済みだ。だだでさえ思い入れの多いデビュー戦。そこで磯崎と対戦し、彼女のハードパンチの最初の犠牲者になったのが他ならぬ自分だったからだ。
 あの試合は高校二年の夏だった。年の離れた兄が近くのボクシングジムに通っていたため、小学生の頃から見よう見まねでボクシングをかじっていたし、天性の素質があったのだろう。裕子にとって、プロテストはそう難しいものではなかった。軽快なフットワークと強力なストレートは相手選手はたちまち戦意を喪失させ、ほかの受験生たちを騒然とさせた。
 プロテストをトップで合格した裕子の相手が決まったのが7月のはじめだった。今までのスパーリングやエキシビジョンとは違って実戦である。裕子はわくわくする気持ちを隠せなかった。自分の才能を多くの人に見てもらえる。あのプロテストの時のように多くの人を驚かせることができると考えると、練習に力が入った。こんな裕子の姿にすっかり諦めたのか、最初は眉をひそめていた両親も応援してくれるようになったし、結婚して外国にいる兄からは、リングコスチュームが送られてきた。
 
 試合は福島県の白河スポーツセンターで行われたが、リングにあがってもおびえや緊張感とは無縁だった。赤コーナーになっていたことも裕子の機嫌を良くした。試合も完全に裕子のペースで展開した。空手の型が抜けない磯崎のパンチをかいくぐぐるのは、裕子にとってたやすかった。1ラウンドで様子を見、2ラウンドに一気に勝負にでた。巧みなフットワークで磯崎の強打をかわし、上下にコンビネーションを打ち分ける。面白いようにパンチがヒットし、磯崎のうめき声が漏れる。「KOできる!」裕子は確信した。「うまくするとこのラウンドでいけるかも!!」2ラウンドも終盤にさしかかり、裕子の攻撃に拍車がかかる。磯崎の顔面が腫れ上がり、鼻血も出始めている。遂に磯崎を青コーナーに追いつめた。「いける!!」KOを狙ってパンチがやや大振りになってきたまさにその時「ヤッ!」磯崎の口から裂帛の気合いを込めた声が響いた。狙い澄ました磯崎の右ストレートが風を切って裕子の左の頬に食い込んだ。「バスン」という鈍い音と同時に裕子の上体が沈み込む。磯崎の必殺の念を込めた左フックが裕子のテンプルに打ち下ろされた。
 「グボン」という激しい音と「ゲブッ」といううめき声が会場全体に響いた。磯崎の体がくの字に折れ曲がり、その頂点には裕子の赤いグローブが深々とめり込んでいた。打ち下ろそうとした左腕が力無く垂れ下がる。裕子が沈み込んだのはダメージのためではなく、必殺のボディアッパーを叩き込むためだった。磯崎は首をいっぱいに伸ばし、マウスピースを激しい勢いで吹き出した。おびただしい唾液がライトの光を浴びてきらきら輝き、裕子の背中に落ちる。マウスピースは見事な放物線を描いて背中を飛び越えてキャンバスに転がり落ち、リングの中央で動きを止めた。磯崎が泳ぐようにしてクリンチし、かろうじてダウンするのを防いだ。「ゲフッ」、「ウボッ」磯崎の口から呻き声が漏れる。密着した身体から、磯崎の荒い呼吸が伝わってくる。二度、三度大きくバランスを崩したのは、ダメージが膝にまできていることの何よりの証拠だ。クリンチをはずそうとする裕子に、磯崎は、まだこんな力がどこに残っているのか?と思わせるほどガッシリとしがみついてくる。「ブレイク」レフリーが命じる。しかし、磯崎はまだ裕子から離れようとしなかった。「ブレイク!ブレイク!!」今度は激しい調子で命じると、レフリーが二人の間に割って入り、強引に二人を分けた。磯崎の精悍な顔が苦痛にゆがみ、腹の底からわき上がってくる吐き気と戦っていることを告げていた。大きく肩を上下させ、荒い呼吸をしている。もうスタミナが尽きていることは明らかだ。もうワンパンチでもKOできるだろう。「ボックス!!」レフリーの声に裕子が躍りかかる。今の裕子の課題は単に勝つことではなく、フィニッシュブローを何にするかだった。記念すべきデビュー戦にこれだけのチャンスが巡ってきたのだ!磯崎はかろうじてファイティングポーズはとっているものの、両腕を胸の所に上げるのが精一杯だった。裕子がラッシュをかけると、防戦一方になった磯崎のガードがフッと下がる。「これだ!」十分に腰のひねりを利かせ、グッと前に踏み込んで得意の右ストレートを放つ。空気を切り裂いた腕がまっすぐになり、破壊力が最高に高まる寸前、ゴングが打ち鳴らされた。磯崎の顔面ギリギリのところでパンチが止まる。まるでその風圧で押されたかのように、磯崎が青コーナーに倒れかかり、セコンドに支えられた。
 「う〜ん。私って強いんだ。」コーナーに戻ると裕子は感心したように言った。「こらっ!調子に乗るんじゃない。」会長が苦笑いを浮かべながら言った。「まあここまできたら大丈夫だろうが、気を抜くな。相手は…」「空手のチャンピオンだぞ、でしょ。」裕子が先回りしていった。会長は裕子の額を小突きながら「その通りだ、腰の切れはなくなっているが、十分に気をつけろ。色気を出さず、早めに決着をつけろ。」ここでゴングが鳴り、裕子はコクンとうなずくとリングの中央に飛び出していった。
 インターバルの後だけあって、磯崎の目には精気が蘇っていたが、明らかにスタミナが尽きかけている。さすがによろけることはないが、ほとんどベタ足に近い状態だ。裕子は軽快なフットワークを駆使し、さらに磯崎のスタミナを削ぎ取っていった。この裕子の攻撃に磯崎は全く手が出せない。「早めに倒せ!」会長の声が聞こえる。「大丈夫だって。うまく決めなきゃ。」顔面にヒットした裕子のジャブに磯崎の顎が上がり、膝が崩れた。「よぉし!いくわよ!! 」裕子の右腕がきれいなカギ型を作り、風を切った。裕子の右フックが一撃必殺の勢いで磯崎の顎に喰い込むかと見えた。だがまさに次の瞬間、磯崎の左腕が裕子のグローブを大きく跳ね上げた。KOを狙った一撃だっただけに裕子が大きくバランスを崩し、そこに致命的な隙が生じた。動揺した裕子の背筋を冷たいものが走る。闘気というものが見えるとしたら、このとき見えたのがまさにそれだろう。磯崎の全身から真っ赤なものが吹き出したように見え、恐怖が裕子の心臓を鷲掴みにした。
 
この試合の記憶はここで途切れている。裕子がこの後自分がどうなったのかを知ったのは、スポーツ番組の女子ボクシング特集だった。

 裕子の右腕を跳ね上げた磯崎が十分に身体を沈め、右腕を凄まじい勢いで突き上げた。瓦をまとめて砕き割る破壊力を秘めた磯崎のグローブに、裕子の顎が完全に埋まっている。磯崎の右腕に持ち上げられるように、裕子のリングシューズが一瞬キャンパスから離れた。背骨が折れるかと思うほど上体が弓なりになる。

挿絵1

裕子の長い髪がキャンパスに触れたのと、裕子が膝を折ったのはほとんど同時だった。裕子を仰け反らせたエネルギーが膝を支点にして、今度は前向きに解放された。裕子は両腕をいっぱいに広げ、そのままの状態で顔面からキャンパスに叩き付けられていた。お気に入りのヘアセットが弾け飛び、長い髪の毛がキャンパスを激しく鞭打った。もう一度大きくバウンドしたときに、はみ出しかかっていたマウスピースがこぼれ落ちた。口元に泡をためて失神した裕子の顔がUPになり、画面が切り替わった…

 裕子の肉体的なダメージの回復は想像以上に早かった。退院した後、すぐトレーニングに復帰できたが、この一戦で裕子の精神の奥底に刻まれたダメージは大きく、きわめて深刻だった。いっさいの妥協を省き、男子さえも根を上げるかと思われる過酷なトレーニングは裕子を大きく成長させたが、この精神的ダメージの深刻さは次の試合まで誰も、当の裕子でさえも気づかなかった。
 次の一戦で、裕子は誰から見ても研ぎ澄まされた気迫を放っていた。自分でも集中力の高まりと、気力の充実を実感していた。磯崎に敗北した暗い気持ちは完全に払拭されている。まるで生まれ変わったような充実感が、その時の裕子には間違いなく存在していた。ゴングと同時にグローブを交える。フットワークとパンチで相手を翻弄する。相手選手の行動は後手に回り、優位を実感する。裕子の感情には前回のような慢心は微塵も存在してはいない。3ラウンド、裕子のボディフックが決まり、相手があっけなくキャンバスに沈んだ。ニュートラルコーナーで相手が立ち上がるのを見ながらも裕子は冷静だった。冷静に組み立てられたコンビネーションで完全に圧倒し、相手選手をグロッキー状態に追い込んだ。ここだ!フィニッシュブローを放とうとした瞬間、相手が死にものぐるいの表情を見せた。鋭い気迫に裕子の背筋が凍り付き、あの時の、磯崎に顎を砕かれた『悪夢の一瞬』が蘇った。裕子の身体がビクッと硬直し、パンチが一瞬遅れた。相手のパンチが、さらにパワーアップした裕子のパンチ力を伴い、殺人的な破壊エネルギーの固まりになって裕子の左の頬に炸裂した。完璧ともいえるクロスカウンターがヒットしては、いくら裕子がタフだとはいえひとたまりもない。醜く歪んだ顔が激しく横を向いてねじれ、肩が、上半身がそれに続いた。凄まじい運動エネルギーを得たマウスピースが、抉り出されるように裕子の口から離れ、唾液の尾を引きながら、まるで彗星のようにリングの外まで飛んでいった。弛緩しきった裕子の肉体がキャンバスに叩き付けられ、仰向けになった。汗で濡れた長い髪が顔にへばりつく。虚ろな目をした裕子の表情は、激しいダメージ以上に、驚きと恐怖に歪んだままだった。

 その後裕子は2度に及ぶ敗戦の屈辱をバネにし、過酷なトレーニングに臨んだ。しかし、さらに鍛え、技を磨いたところで、理由なしに刻み込まれた恐怖は払拭するのは困難である。裕子はこのことを三日前の惨めな敗北によって身をもって味わった。三日前の試合は、会長が配慮した結果、それほどパンチ力のない相手との対戦だった。この試合に負けたらおそらく会長は試合を組んではくれないだろう。あれだけ激しいKO負けを連続して喫しているようでは、今後リングに上がるのが危険であることは裕子にもわかっていた。「負けられない!」この意識が裕子からすべてを奪った。コンビネーションはちぐはぐになり、パンチは大振りになった。そのたびに相手のパンチが、着実に裕子の身体にダメージを刻み込んでいった。相手が気迫を込めたパンチを放つたびに裕子は単なる木偶の坊と化した。なまじ相手に一撃必殺の破壊力がないだけに、かえって嬲りもの同然だった。3ラウンドを迎えた時には裕子の顔は無惨に腫れ上がっていた。得意の右ストレートに最後の望みをかけて一撃逆転を狙ったが、裕子のそんなはかない望みをかなえるだけのスタミナなど残っていなかった。全くいいように相手の攻撃を浴びる。こんな形で終わるのか…裕子の焦りが限界に達した。「ちくしょう!」右腕を振り上げたところに、相手が懐に飛び込み、力任せにパンチを突き上げた。裕子の目が大きく見開かれる。グローブが裕子の鳩尾に喰い込み、さらに深々と抉り込まれ、裕子のスタミナと闘志を最後の一滴まで吸い尽くした。「ウゲェッ!」自分の無様な声が聞こえる。相手のグローブを抜き取ろうとするが両腕に全く力が入らない。相手の真っ赤なトランクスが目の前に見える。自分でも知らないうちに裕子は前のめりに崩れかかっていた。「だめ!動けっ!!」薄れかかった意識で膝に命令するが、膝がまるで他人のものであるかのように裕子の命令を無視し、裕子はキャンバスに跪いていた。胃の奥底から、重苦しいものが固まりのようになってこみ上げ、裕子は鳩尾を押さえたままキャンパスに突っ伏した。まるで土下座をしているかのような無様な格好だ。レフリーがニュートラルコーナーを指さし、相手選手がコーナーにもたれかかるのが見える。「負けちゃう!」立ち上がろうとするが、上からすごい力で押さえつけられているように自由がきかない。「スリー」レフリーの声が無情に響く。冷たい脂汗が幾筋も滴り落ちた。「くそっ!!」最後の力を振り絞り立ち上がる。膝がキャンパスから離れる。「ウブッ」口中に酸っぱいものがこみ上げ、裕子の両頬を思い切り膨らませた。裕子の身体はそのまま横倒しになり、仰向けになった。「お、終わっちゃう。」口の中いっぱいになった胃液と唾液が、腫れ上がった裕子の唇をこじ開けにかかる。無意識にグローブで押さえようとしたが、グローブはかすかに動いただけだった。ふと目前に真っ白なものがひらひら舞い落ちるのが、ふさがりかかった裕子の視界に入った。それが会長によって投げ込まれたタオルだと認識した瞬間、裕子の意識をつなぎ止めていた最後の糸が完全に途切れた。「ブバッァ!」裕子の上半身が一瞬のけぞり限界までため込まれた口の中のものが一気に放出された。真っ赤に染まったマウスピースを先端にして、唾液と胃液が吹き上げられた。

挿絵2

「ボトン」裕子は自分のマウスピースがキャンパスに転げ落ちる音を、地獄の苦しみに悶絶しながら聞いた。一拍おいて自分が吹き上げた胃液と唾液が冷たい滴となり、顔面に降り注いだ。たちまち裕子の顔面に幾筋かの血の流れができ、裕子の口元や、うつろな目をした裕子の目尻を伝って、ざらついたキャンパスに吸い込まれていった。

 「惨めだったな」思わず顔を両膝に埋めた。あれから3日も経ったのに、まだ胃のあたりには重苦しい痛みが残っている。「終わっちゃった。」そう思う。会長は何も言わなかったが、それは会長のせめてものいたわりだったのだろう。両親も何くれと世話を焼いてくれたが、試合については何一つ触れなかった。デビュー以来3戦全敗3KO負け!これほど無様なことはないだろう。今日の雑誌は、裕子のことを「KOアーティスト」と書いていた。確かにあれだけの派手なKO負けは稀だろう。見事なKO負けの芸術家!そうだよ。うん、そのとおり。ここまでは冷静に眺めていた裕子だったが「磯崎の踏み石」「最高の咬ませ犬」の文字が飛び込んできた瞬間、雑誌を放りだしていた。

 『ああっと!磯崎の強烈な右、堀完全にグロッキー!さあ!一気に決めるか〜!』リングアナウンサーの絶叫に近い声に裕子ははっと我に返った。TV画面ではもう4ラウンドに入り、磯崎が堀を仕留めようとしているところだった。強烈な右フックに、堀の身体がビクッと硬直した。そして崩れ落ちるようにキャンバスに沈んでいった。『これは堀〜立てない〜!磯崎KO記録をまたも更新!!』『いや〜鮮やかですね。男子でもこれだけ切れのいい攻撃ができる選手は稀ですね。まさしくKOプリンセスの面目躍如と言ったところでしょうか。』解説者が付け加える。レフリーに右腕を上げられた磯崎は満面の笑みを浮かべている。

 「遠くなっちゃったな……」あれだけ磯崎を苦しめたのが夢のようだった。そう少しで、あと何秒かでKOできたのに…。同じデビュー戦を戦った磯崎が、今や注目度ナンバーワンのKOプリンセスで、自分は「踏み石」で「咬ませ犬」か。でももう試合なんかできないから関係ないよ。心の中でそう思った。ボクサーの山神裕子はもういないんだよ。残念でした。ぼんやりとそんなことを考えた。

 「山神選手ですか?」「ハイッ?」裕子は思わず答え、次の瞬間には思わず苦笑いをしていた。そばにいる誰かに呼ばれたのではなくTVの声に答えていたのだ。「?」なんで私の名前が出てくるの?思わず画面を食い入るように見た。
 
 磯崎が勝利者インタビューに答えている。「山神選手というと磯崎さんがデビュー戦で倒した選手ですよね?」マイクを持ったアナウンサーが不思議そうな顔をしてきいている。
「でも山神選手は今まで勝ちはありませんよ。それに先日の試合では…」「でも彼女の力はあんなもんじゃありませんよ。」磯崎がアナウンサーの言葉を遮って言った。裕子は自分で聞いたことが信じられなかった。TVで自分のことが話題になってる!それもあの磯崎の口から!!「私はもっときちんとした形で彼女と戦いたいんです。あの試合は私がまぐれで勝ったようなもんです。すぐには無理にしても、もう一度戦わないことには納得できないんです。」磯崎の顔に赤みがさしている。彼女が真剣に言っているのは間違いなかった。「それではその『夢の』対戦が実現することを期待してインタビューを終わります。磯崎選手今日は本当におめでとうございました。」アナウンサーの『夢』という言い方には明らかに揶揄するようなニュアンスが込められていたが、今の裕子はそんなことを聞き分ける余裕は全くなかった。
 TV中継が終わっても、裕子はしばらくボーッとしたままだった。そして徐々に身体の芯から力がわいてくるのを感じた。あれだけの苦痛がスウッと薄れていく。自分と戦いたい人がいるんだ。「このままじゃぁやめられない!」そう思った。「これでしっぽを巻いちゃぁ裕子さんの女が廃るってもんよ。」裕子本来の明るさが蘇ってきた。「明日ジムに行って会長にお願いしてみよう。あんたもそう思うわよね?」裕子はそう言うとお気に入りの熊の縫いぐるみの鼻をちょこんとつついた。