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さてどう切り出そうか?裕子は駅からジムまでの間、このことばかり考えていた。「@ひたすらお願いする。」なんだか熱血スポコンみたいで恥ずかしい…却下、かな?「A何気なく入って練習にかかる。」でもこれって、いくらなんでもあんまり図々しい…う〜ん。「Bおねだり調。ねぇ、会長お願いしますよ〜って…」…私ってホントにバカ!あっそうだ!!「C磯崎選手の挑戦に応える。」これちょっとかっこいい。……でも挑戦って弱い方がするモンだよね。ダメダメ!これが一番かっこわるいじゃない!!
 動物占いで『コアラ』の人間は言い訳の天才だと言われているが、我ながら情けないほど、ばかばかしい選択肢が次から次と浮かんでくる。ジムの前を走っている市内循環のバスが、2回ほど裕子のそばを走り抜けていった。
 「よし!」裕子は遂に決心して、拳をグッと握りしめた。ボクシングを続けたいのは間違いなく純粋な気持ちだ。その場の雰囲気に任せよう!よぉし!あたって砕けろだ!!ついに腹をくくって顔を上げた。「よう。やっと決まったかい?」不意に頭の上から会長の声がした。「きゃっ!」裕子は思わず悲鳴を上げた。会長が二階の窓枠に腕を組み、その上に顎を乗せている。「全く待ちくたびれたぜ。」大きなあくびをして見せてからそう言った。「い、いつから見てたんですか?」裕子はどもりながら上を見上げた。「オウ。気がついたのは15分ぐらい前だな。おかげでコーヒーがすっかり冷めちまったぜ。」そういうと片目をつぶって見せた。「全くそんな真っ赤な顔をしやがって。まあとりあえず中には入れや。」
 「私、どうしてもボクシング続けたいんです。」ジムにはいると、裕子は会長の目を見ながらそういった。「ああ。いいよ。」「え!」裕子は思わず拍子抜けした声を上げた。「何だよ。なんて言われると思ったんだ?」「だってあんな負け方をしたんだから、もうだめかと思って…」会長が軽く片手を上げて裕子の言葉を遮った。「やりたいというのを俺は止めることはできないよ。それにしてもお前はほんとに頑丈にできてるな。あれだけやられても、もうケロッとしてるんだからたいしたもんだ。」裕子の顔がまた赤くなった。「会長は私のことを象かなんかと思ってるんじゃないですか?」裕子がそういうと会長が一言言った。「違うのか?」「やだぁ!」裕子はそういうと会長の腕を軽くたたき、明るい笑い声を上げた。ふっと会長が目を細めた。「よし。じゃあいいんだな?」「はい!お願いします!!」弾むような声で裕子が応えた。
 
 次の試合が決まったのはそれから1ヶ月もしないうちだった。KO負けした選手の再戦としては、非常に早い決定だ。驚いたことには対戦の申し込みは4件もあったという。最近選手層が厚くなっているとはいえ、女子ボクシングのマッチメイクとしては、何から何まで異例づくめだ。磯崎の発言が影響しているのは間違いなかった。「でっかい借りができちゃったな。借りはきっちり返さなきゃ!」会長から試合決定を告げられたとき、裕子はしっかりと心に刻み込んだ。
 「強敵だぞ。」会長が対戦選手のデータを綴じたクリップボードを渡しながら言った。「それに非常に癖のある相手だ。」裕子は首を傾げた。会長がこんな様子を見せるのは初めてだ。クリップボードの書類には対戦選手のデータと写真が載っている。「『海老塚万里子』選手。6戦4勝1敗1分け4KOですか。全部KOで勝ってるんですね。」裕子がそういうと会長が頷いた。「おう。特にこの1敗が問題なんだ。TKO負けだったんだが、その相手が…」「磯崎選手ですね。」裕子は思ったままのことを口にした。「そうだ、こいつは磯崎を苦しめたお前を倒して、屈辱を晴らしたがっているんだ。」会長がそういうと裕子がニヤッとした。「『咬ませ犬』の怖さを教えてやりますよ。」裕子の言葉に会長は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに大きな声を上げて笑った。「よ〜し!その意気だ」そういうと大きな手の平で裕子の背中をたたいた。「痛いじゃないですか!」そういいながら裕子にはその痛みが心地よかった。
 バンテージが切れかかつていたことに気が付き、帰りに行きつけの店に寄ることにした。そういえば試合用のマウスピースも残っていなかった。「こんにちは〜!」裕子は『Winner's Room』のドアを元気よく開けた。ドアに付いたベルがカランと快い音を立てる。「ああ裕子ちゃんいらっしゃい!試合決まったんだって?」店長の島口が声をかけた。相変わらずこの店長は情報が早い。「ハイッ!1ヶ月後に海老塚万里子選手と下北です。」「う〜ん。海老塚選手か」島口の口調には引っかかるものがあった。そういえば会長が「非常に癖のある選手」といっていた。あの時はファイトスタイルのことばかりだと思っていたが、島口の口調にはそれとは別なニュアンスが込められているように思えた。「知ってるんですか?」「うん。うちのお得意さんなんだけど、性格がねぇ…まあいいか。裕子ちゃんには見せちゃおう。但し内緒だよ。」そういうと島口は棚の上に置いてあった包みをカウンターに置いた。「これは…リングコスチュームですね。でも何か変…」目の前にはトランクスとスポーツブラが置かれていた。高級そうな素材が使われているのは裕子にもわかったが、形自体はそれほど変わっているわけではない。そのデザインが異様だったのだ。白地に茨が巻き付いている。「あ、そうか。」裕子はやっと違和感の正体をつかんだ。つまり茨だけで、本来あるべき所に薔薇の花が一輪も咲いていないのだ。「そう。花がないだろ。あのお嬢様は自分自身で花を咲かせるのがお好みなんだ。」「でもどうやって?」裕子はそう言って、すぐに自分の無様な敗北を思い出していた。「まさか…?」「そう。そのまさか。」島口が苦虫を噛みつぶすように言った。「相手選手の血で花を咲かせるんだよ。滅多打ちにしてね。そして試合の度ごとにこんな高いコスチュームを新調してさあ。ほとんど病気だね。」「なんだか海老塚選手を嫌ってるみたいですね。」裕子が不思議そうに聞いた。「うちだって商売じゃなければ、あんまりおつき合いしたくないよ。あのブラッディマリー様とはね。」「ブラッディマリー?」おうむ返しに聞いた。「血まみれの万里子様ってことだよ。」そこまで言ったとき、店の駐車場に車が入ってきた。裕子はこれほど大きなリムジンを見たのは初めてだった。「おっと!やばい。マリー様のお出ましだ。ちょっと中でお茶でも飲んでなよ。すぐに嵐は過ぎるから。」そう言うと島口は裕子の背中を押して、応接コーナーに入らせた。島口がカウンターに戻ったのと店のドアが開いたのはほとんど同時だった。
 「いつもの出来てる?また待たせるんじゃないでしょうね。」セーラー服に身を包んだ高校生が入ってくるなりそう言った。透き通るほど白い肌で整った顔立ちをしている。整っていると言えば磯崎も整った顔立ちをしていたが、この娘は何とも言えない冷たい雰囲気を漂わせている。なんだか陶器でできた西洋人形のような感じがした。「あっ!これは海老塚さん。お待ちしていました。今ちょうど包むところでした。」島口はそう言うとカウンターの引き出しから包装紙を取り出した。「どれ。ちょっと見せて。」海老塚はそう言うと持っていたバックを、一緒についてきた娘に渡した。そしてトランクスを手に取り、材質とデザインを品定めする。「試合がお決まりですか?」島口が聞いた。『わかってるくせに』裕子はそう思ったが口には出さなかった。
 「ええ。1ヶ月後に。」海老塚が顔も上げずに答えた。「でもこの前のコスチュームでも十分…」島口がそう言いかけると、海老塚がキッと睨み付けた。「あんなもの着られると思って?あれは肩口がきつすぎてうまく動けなかったのよ。今度あんな不良品売り付けでもしたら、ただじゃすまないわよ!」『スーポーツブラで肩がきついもないでしょうに!』思わずツッコミを入れたくなる。「そう言えば前の試合残念でしたね」島口がそう言うと、海老塚の表情がますますきつくなった。「あんな田舎娘、もう少しで倒せたのに!馬鹿なセコンドが余計なことをするから!」「そうなんですか」『あれっ?』島口の口調に微妙なものがこもっていることに裕子は気が付いた。「あんた誰に向かって口きいてるかわかってるの!?」海老塚の表情に朱がさしていた。「あんな馬鹿なやつ、首にしてやったわ。」『何この人?』「今回もバカに弱すぎるんだけど、どうしても私と戦いたがってるようなのよね。」『なっ!?』裕子は思わず声を上げそうになった。『申し込んできたのはあんたでしょうに!』海老塚が言葉を続けた。「身の程知らずな馬鹿な娘に、私が現実の厳しさを教えてあげるわ。これで気持ちよく引退できるでしょうよ。」ここまで言われると怒るのも馬鹿馬鹿しくなってくる。
 「それじゃ支払いはカードでいいわね。」海老塚がそう言うと一緒にいた娘がすっとバックを差し出した。「二十六万八千円になります。税込みで…」「いいわよ30万で。キリがいい方があんたも助かるでしょう。」『ゲェッ!』妙な声を裕子は必死に飲み込んだ。『さ、さん、30万〜?』「ありがとうございます。ご健闘をお祈りしています。」島口がそう言うと「まあ楽しめればいいんだけど。早めに楽にしてあげるわ。そうだわ。次のコスチュームも用意しておいて。」言いたいことだけ言うと海老塚は店から出ていった。
 「ふう〜」島口が腹の底から長々と息を吐いた。「あの人私がいるの知ってたんでしょうか?」裕子は疑問に思っていたことを聞いた。さっきからなんだか挑発されているような感じがしてならなかったのだ。「いや。全然気が付いていないと思うよ。いつもあんな調子さ。」島口はそう言うと肩をすくめて見せた。「私立大学の理事長の娘でね、何でも彼女のために女子ボクシング部を創ったって話だよ。全く専属の運転手やお付きまでいるんだから…、」「ついてきた娘ってそうだったんですか。それにしてもいろんな意味ですごい人ですね。それにしても…」裕子は島口を見上げながら言った。「わざと怒らせるようにいってませんでした?」「だって裕子ちゃんだって、やられっぱなしじゃ気持ち悪いだろ?」裕子がこくんと頷くと島口が豪快な笑い声を上げ、裕子もつられて笑ってしまった。「とにかく癖のある選手だからがんばれよ。俺、裕子ちゃんの味方だからな。」「ハイッ!」裕子は元気よく答えた。
 
 たちまちのうちに一ヶ月は過ぎ、裕子は海老塚とリングの上で向かい合っていた。あのリングコスチュームを身につけ、口元にはあざ笑うような薄い笑みが浮かんでいる。裕子はこの娘を嫌いになることを決めた。
 1ラウンドから海老塚はフットワークを活かして攻勢にでた。素早いジャブを放ち、裕子の反撃を受ける前にステップアウトする。裕子のフットワークは海老塚に勝るとも劣らなかったが、リーチの違いは如何ともし難いものがあった。確かにあれだけのことを言うだけの力は十分備えている。大きなダメージはなかったが、裕子の身体に少しずつ赤いものが増えていった。「シュッ」という鋭い呼吸音と同時に、海老塚のグローブが裕子にヒットし、乾いた音を立てた。会場の大部分を占める海老塚の応援団が大歓声を上げる。観客から見れば実力差の大きい一方的な試合だろう。しかし裕子には全く焦りはなかった。海老塚の動きの組み立て方をしっかり把握していた。「勝てない相手じゃない。」裕子の冷静な部分がそう告げる。「パシン」また海老塚の左のジャブが裕子の左の頬にヒットし、裕子の顔を歪ませた。更に大きな歓声が上がる。「まだまだ」ダメージは全くない。会長も全く指示を出そうとしない。「ちょっとは楽しませてよ。」クリンチしたときに海老塚が耳元でささやいた。「田舎者にはボクシングなんて無理でしょうけどね。」相変わらず口元には薄笑いが浮かんでいる。「フン。」裕子はこの言葉を完全に無視し、鼻を鳴らした。「なっ!」海老塚には思いがけない反応だったのだろう。裕子から離れると猛然と打ちかかってきた。3連続KO負けしている娘なんか何でもない。明らかに海老塚は裕子をバカにしていた。そんな娘に鼻で笑われたのだ。ただでさえプライドの高い海老塚には許し難い態度だった。裕子は海老塚の攻撃を軽やかにかわし、逆にその顔面に素早いジャブを2発ほどお見舞いした。ここでゴングが打ち鳴らされたが、海老塚の顔には激しい怒りが浮かんでいた。「調子に乗るんじゃないわよ。血反吐の中に眠らせてあげる。」右のグローブを裕子に向かっ突き出し、吐き出すように言った。
 「大体わかったか?」会長が聞いた。「ええ。ショートパンチのタイミングがもう少しなんですが。」裕子は口の中の水を吐いて答える。「もう少し動き回らせてから打ち合え。もっと焦らせてやろう。」裕子はマウスピースをくわえながら頷いた。
 2ラウンドは海老塚のパンチに力がこもってきていた。しかし試合経験で裕子に勝るだけあって、冷静さを失っている訳ではない。要するに小生意気な田舎娘をお仕置きしてやろう、というのだろう。踏み込みが1ラウンドよりも深くなっている。この攻撃を裕子はフットワークと上半身の動きで完璧にかわした。海老塚がパールシルバーのマウスピースをむき出しにして打ちかかってくる。「ここだ!」裕子の強打がきれいに海老塚の顔面にヒットした。思わぬ一撃を受け、海老塚はバンザイをするように両腕を上げて派手に仰け反った。裕子は更に踏み込み、海老塚の脇腹に切れのいいショートフックを喰い込ませた。海老塚が前のめりになり、マウスピースが半分はみ出す。裕子の腰に両腕を巻き付けクリンチした。右のグローブでマウスピースを押し込んだが、その口元から薄笑いが消えていた。「そんなに死にたいのね!」海老塚の身体は熱を帯びている。猛攻が裕子を襲う。格段にスピードが増し、パンチの切れが増した。磯崎に敗れた口直しを楽しもうという気持ちが消え、本気で裕子を倒しにかかってきた。凍り付くような殺気がこもったパンチが裕子をかすめる。裕子の背筋に冷たい汗が流れた。「まただ。」この感じ…覚えてる!海老塚のパンチをかわしながら裕子はそう思った。ダメージはないのに身体の動きが鈍くなる。「だめっ!」自分を励ますが思うように身体が動かない。そんな裕子に海老塚のパンチが情け容赦なく降り注いだ。裕子の顔面がたちまち腫れ上がる。「バゴッ」海老塚のストレートが顔面に喰い込んだ。無意識に仰け反ってダメージを緩和したが、頭の中が一瞬真っ白になる。顎を狙ったアッパーをガードできたのは、裕子のボクサーとしての本能だった。「ほら、ほら。どうしたの?」海老塚の声が聞こえた。「そう簡単には許さないわよ。」かろうじて必殺の一撃をかわした裕子はガッシリとガードを固め、攻撃をしのいだ。「打ってきなさいよ。亀さん」海老塚の口元に薄笑いが再び浮かんでいる。そのスポーツブラには、裕子の鼻血が小さな赤い花を咲かせ始めていた。父の財力で相手を選んでいるとはいえ、4人もの選手をKOしているだけに破壊力は水準を超えている。一方的に打たれたまま2ラウンドが終了した。
 「おい!いきなりどうした?」裕子の口に指を突っ込みながら会長が聞いた。ネットリとした唾液と血にまみれたマウスピースが引き出される。「あの感覚が…」「あの感覚?」会長がおうむ返しに聞いた。「磯崎さんにやられたときのあの感覚です。」裕子は、いったん上を振り仰ぎ、肩を落としながら答えた。「おまえはその磯崎に勝ちたくて這い上がったんだろう?」裕子がハッとして顔を上げる。「あんなお嬢様にやられたら、磯崎はどう思う?」裕子の目に活力が蘇ってきた。「借りは返さなくちゃ!」まだ口の中は血の味がしたが、裕子は力強く答えた。「よ〜うし!」会長はそう言うと裕子の頭に手を乗せて髪をくしゃくしゃにした。裕子にとってこれは最高のご褒美だった。
 3ラウンド開始早々から海老塚の強打が裕子を襲う。3ラウンドは裕子にとって「魔のラウンド」だ。過去すべてこのラウンドに敗北を喫していたのだ。3ラウンド終了のゴングを裕子は一度も、ただの一度もまともに聞いたことがなかった。「グズン!」「バスン!」裕子のガードを突き破って海老塚のパンチが裕子の身体に喰い込んだ。「グウッ」思わずうめき声が漏れる。心臓を鷲掴みにされるような恐怖がたびたび裕子をとらえる。「私は…」海老塚のパンチに耐えながら、裕子の奥底から力がわき上がってくる。「磯崎さんと戦うんだ!」裕子の強打が風を切り、海老塚をガードごと吹き飛ばした。一瞬意外そうな表情を浮かべたものの、すぐに体勢を立て直した海老塚が攻勢に転じる。「シュッ」鋭い呼吸音が裕子の背筋に再び冷たい汗を流したが、今までのように体が固くなることが無くなってきている。「来る!」その感覚がするたび裕子の身体が無意識のうちに、殺意のこもった一撃をかわしていく。隙の生じた海老塚の身体にパンチが喰い込み始める。「ウブッ」無様な声が海老塚の口から漏れ、続いて「この野郎!」という汚い言葉が、激しい憎しみを込めて吐き出された。激しい勢いで両者の拳が交錯する。裕子のパンチがガード越しに海老塚の身体にダメージを刻み始める。裕子のフットワークが復活した。攻撃を上下に散らし、海老塚のガードをかいくくってパンチをクリーンヒットさせる。「畜生!」海老塚がすべてをかなぐり捨てて襲いかかる。裕子の身体が再び硬直しかかったとき、裕子の耳に3ラウンド終了のゴングが響いた。
 「危なかったな?」会長が言った。「ええ。でも褒めてくれませんか?」会長が怪訝そうな顔をした。裕子の腫れ上がった顔にニヤッとした笑みが浮かんだ。「3ラウンドまで初めて切り抜けましたよ。」会長が苦笑いした。この分なら大丈夫だろう。成長したもんだ。会長はそう思った。「ようし!初めてついでに初勝利と行くか?」「ヘヘッ」裕子は照れたように笑うと鼻先をグローブで擦った。
 海老塚の攻撃は、もはや裕子にダメージを与え得なかった。大振りになった海老塚のパンチをかいくぐり、裕子の右が海老塚のレバーに喰い込む。海老塚の膝がガクッと折れ曲がり、キャンパスに崩れ落ちるように沈んだ。「エボッ…グエッァ!」口を押さえた海老塚のグローブをこじ開けて、唾液と血にまみれたパールシルバーのマウスピースが妖しい輝きを見せながらこぼれ落ちた。「グバッァ!!」今度は胃液と唾液が吐き散らかされた。海老塚の目の前に血が混じった水たまりが作られた。跳ね返った血しぶきが海老塚のリングコスチュームを血で染め上げていく。「スリー」カウントが続く。海老塚が物憂そうに首をもたげた。端正な顔が苦痛で歪み、汗と涙と吐瀉物にまみれている。しかしその目には紛う方無き憎悪の炎が燃えていた。「ファイブ」海老塚はロープを握りしめ立ち上がる。セコンドがタオルを握りしめているのが見えるが、海老塚の視線に押されあわてて引っ込めた。「シックス!」歯を食いしばってロープに身体を預けている。「エイト!」海老塚がファイティングポーズを取った。「ナイン!!」海老塚の足下がややふらついている。レフリーがカウントを続けた。海老塚の顔が怒りで歪み、左右のグローブをレフリーに突きつけた。レフリーがグローブをつかみながら何かいうと、海老塚が激しく首を縦に振った。レフリーが振り返り、裕子の方を見た。「ボックス!!」両腕が交差し、戦いが再開された。
 裕子の猛攻に海老塚がたちまち青コーナーに詰まった。「ゆっくりいけ!ゆっくり!!」会長の声が間近で聞こえる。「OK!」軽く頷くだけの余裕があった。裕子のジャブが更に海老塚のスタミナを削り取っていく。海老塚の応援団の声は悲鳴に近かった。もうガードもあやしくなっている。「パシン」もう一発裕子のパンチがクリーンヒットする。力つきたように海老塚のガードが下がり、うなだれるような姿勢になった。「ダウン!」遂にレフリーがスタンディングダウンをとった。ニュートラルコーナーを指さして、裕子に行くように命じる。海老塚の顔にキッとした表情が蘇る。レフリーはカウントをエイトで止めたが、振り返って赤コーナーに目をやった。セコンドが仕方なさそうに首を横に振るのが見えた。
 「あと一度倒せば勝ちだ。」そんな状態でも今の裕子にはおごりや油断は皆無だった。フットワークを駆使して完全に海老塚を圧倒する。相手の死角に回り込みパンチを放つ。よろめいた海老塚にとどめの一撃を放とうとしたとき、海老塚の殺気が再び裕子を包み、裕子の足が動きを止めた。「!」裕子の足をキャンバスに釘付けにしたのは、恐怖などではない。海老塚が裕子のリングシューズを踏みつけているのだ。まだ海老塚のガードは甘いままだ。「このおっ!」裕子は膝を十分に沈ませ、腰にためたパンチを海老塚の脇腹に叩き込んだ。「ブッウ!」海老塚のうめき声を聞いた瞬間、裕子の顔面を激しい衝撃が襲った。「?」何だ今のは…。急激に意識が朦朧となる。気が付くといつの間にかキャンバスに片膝をついている。やられたの?そんなはずはない!あんな体勢からパンチが打てるはずはない。鼻の中に硫黄の固まりでも押し込まれたようにキナ臭い臭いがする。口元を何かネットリしたものがゆっくりとしたたり落ちる。グローブで押さえてみると、びっくりするほどおびただしい血がグローブの先端に付いていた。
 「何?これ?!」頭がガンガンする。何でカウントをとらないんだろう。「まさか!もうやられちゃったの?」視界を覆っていたもやが次第に晴れてきた。海老塚がレフリーに押さえられ、厳しい注意を受けている。海老塚が抗議しているようだが、レフリーは一切無視して、ジャッジに減点を告げていた。「バッテングか…」やっと状況が飲み込めてきた。裕子のパンチに前のめりになったとはいえ、あれだけ勢いがつくわけがなかった。そこまで卑怯だとは思いたくなかったが、リングシューズを踏みつけた直後だったので、意図的なものと考えずにいられない。レフリーが歩み寄り、かがみ込んで裕子の様子をうかがった。「ドクターに診てもらおう。」そういうと裕子の右腕を抱えてロープ際のドクターの所に連れて行く。「どれ。折れてはいないようだな。」中年の、恰幅のいいドクターが裕子の鼻骨をさすって言った。「それにしても出血がひどいな。止血はしておくが、状況によってはストップするよ。」そう言って手慣れた調子で止血の処理をした。あれだけの出血がすっかり止まっていた。「上手なんですね。」感心するほどの手際に、裕子が思わずつぶやくとドクターは苦笑して「ありがとう」といった。そうして裕子の肩をポンと一つたたき「がんばれよ!あんなやつに負けるなよ」今度はだいぶ小声でそう言うと、片目をつぶって見せた。
 いよいよ5ラウンドを迎えたが、さっきのダメージは深刻だった。視界がぼやけ、狙いがうまくつかない。裕子の空振りが目立ち始めた。海老塚が畳みかけるように攻撃を加えてきた。前のラウンドの減点で判定勝ちは絶望的だが、このままKOすれば問題ない。そんな計算だろう。かわそうとした裕子のリングシューズをまた海老塚が踏みつけた。「このぉ!」そう思う間もなく、海老塚の最後の力を振り絞った強打がリングに縫いつけられた裕子に打ち下ろされた。「ベェグォ!」抉り込むような右フックが裕子の顔をひしゃげさせた。マウスピースが口からはみ出しかかっている。前のめりになった裕子の顔に何かが触れた。「う、グッ」夢中でしがみつくと、海老塚のトランクスが目の前にあった。例の茨がデザインされたトランクスだ。裕子の口や鼻からあふれ出た血が花を咲かせる。ブルブルッ、ガクン。裕子の膝が砕けた。裕子は海老塚のトランクスに顔を押しつけたまま前のめりになっていく。真っ赤な筋が純白の部分を彩った。
 海老塚の太股が頬に触れた。ビッショリとした熱い汗にまみれている。その汗が裕子の血と混じり合う。ボロリ。マウスピースが海老塚のリングシューズの前にこぼれ落ち、裕子の顔面がそれに続いた。キャンバスのざらついた感触が、裕子の腫れ上がった右頬に伝わる。まだ残っていた唾液が口元からこぼれ、キャンバスに吸収されていった。「やられちゃうの?こんなやつに!!」裕子の闘志が呼びかけるが、別な感覚が裕子を包む。「でも…。気持ちいい……なんかフワフワした感じがする…」裕子はこの快感に思わず身をゆだねようとした。「思い知った?バカな娘が調子に乗るからよ!」上から海老塚の声が降ってきた。「これでも喰らいな!!」ニュートラルコーナーに向かいながら、海老塚の右のリングシューズが裕子の顔を踏みつけた。
第一話(後編)挿絵1

血にまみれた裕子の顔に、海老塚のリングシューズの底の模様がくっきりと刻印された。「くっ!」薄れかかった意識が急速に蘇る。レフリーに注意されても、海老塚は両腕をとぼけたように広げている。「許せない!」裕子の中で封印されていた何かが弾けた。「こんなやつ許せない!!」裕子が立ち上がると場内が大歓声に包まれた。驚いたことに海老塚の応援団までもが裕子を応援している。海老塚は、立ち上がった裕子を見るとやれやれという顔をした。右腕を突き出すと、親指をグッと下に向けた。「大丈夫か?」レフリーが裕子の目をのぞき込んだ。「OKです!」腫れ上がった唇を動かして答える。「あんなやつには負けません!」レフリーがにっこりしながら頷いた。
 「ボックス!」レフリーが両手を交差させると、海老塚が全身から殺気をほとばしらせながら襲いかかってきた。「ブラッディマリー」のニックネームそのままにリングコスチュームには大輪の薔薇がいくつも花を咲かせている。今までは対戦選手の血で花を咲かせていたのに、今回半分以上は海老塚自身の血だった。ここまで自分に恥をかかせた裕子を殺す気でいる。裕子はこの攻撃を足を止めて待ちかまえた。「死ねっ!死ねぇッ!」パンチを放つ度に唾液を吐き散らしながら海老塚が狂ったように叫ぶ。その一方で裕子は完全に無心だった。相手の殺気が目に見えるように感じられた。殺気を乗せたグローブが裕子の頬をかすめる。「ここだ!」裕子の闘気がほとばしり、海老塚がギクッとしたように動きを止めた。海老塚の顔が恐怖で歪んでいる。「アッ!アアッ!!」意味不明の言葉が絞り出される。「ゴキュッ!!」裕子の右ストレートが、腰のひねりが利いた、フォロースルーも完璧な一撃がきれいな軌跡を描いて海老塚の右頬を粉砕した。首が不自然なほどひどくねじれた。「ボォゲェッ!!」まるで体の中で何かが爆発したような、耳を覆いたくなるような、声にならぬ声が海老塚の身体から絞り出され、マウスピースが観客席の中程まで吹き飛んだ。そのマウスピースをくわえようとするように、完全に弛緩しきった海老塚の肉体が赤コーナーまで吹き飛ぶ。コーナーポストを抱きかかえるようにして海老塚が崩れ落ちていく。両腕が真ん中の赤いロープに引っかかり、海老塚はそのまま動かなくなった。醜く歪んだ顔には恐怖が深々と刻印され、だらしなく広げられた口からは血まみれのネットリとした唾液が尾を引いていた。ピクッピクッ。海老塚のトランクスが、大輪の真っ赤な薔薇をいくつも咲かせたトランクスが痙攣し、透明な液体が溢れ出した。失禁した海老塚の小水が、内股にこびりついた裕子の血を洗い流していった。
第一話(後編)挿絵2


 ゴングが乱打され突然の試合終了を告げる。「勝っちゃったの?」なんだか実感がわかない。ボーっとしている裕子を会長が抱き上げた。「よーし!よくやった!!」そのまま会長は裕子を抱えたままダンスでも踊るように、リングを2周した。大歓声と紙吹雪が会場いっぱいに満ち満ちた。紙テープが8つほどカラフルな尾を引いて飛び込んできた。観客が総立ちになり「裕子コール」を送っていた。
 「会長。」「何だ?」会長が裕子を抱き上げたまま聞いた。「私って強いですか?」少しもごもごした声で裕子が言った。口の中が腫れ上がっているので、思うように言葉にならない。「え?」会長は一瞬驚いたような表情を見せたが、次の瞬間顔を笑顔でくしゃくしゃにした。「ああ!お前は最高だ!!」「そのうち磯崎さんも戦ってくれますよね?」会長は裕子を降ろし、目を見ながらしっかりと頷いた。「もちろんだ。次は勝とうな!!」「はいっ!」
裕子は元気よく答えると、ふっと思った。そうだ磯崎彩夏に手紙を書こう。いつになるかわからないけど私と戦ってくださいって。借りは返しますよって。
 「ほら。お客さんにちゃんと挨拶しろ」会長に言われて裕子は辺りを見回した。まだ興奮がさめない観客が声援を送ってくれる。なんだか少し照れくさいな。だけど「まあいいっか♪」裕子が両腕を上げて観客に応えると歓声が更に大きくなり、裕子の全身を快く包み、激戦をー海老塚万里子だけではなく、自分の奥底に潜むものとの激戦をー制した裕子を癒していった。