「こんなところかな?」書き上げた葉書をかざして裕子は独り言を言った。『お元気ですか?突然お手紙を差し上げてごめんなさい。昨日の試合勝ちました。何もかも磯崎さんのおかげです。これからもがんばりますので今後ともよろしくお願いします。』我ながら下手くそな文章だが、裕子の文才ではこれが限度といえた。字も決して上手とはいない。「…要は気持ちが通じればいいのよ。うん!気持ち、気持ち」言い訳するように自分を納得させて切手を貼った。ジムのそばのポストに投函すると、ほっとして肩の力が抜けるのを感じた。たったあれだけの文章なのにこれじゃ試合をした方が気が楽だな。そんなことを考え、肩を回しながらジムの扉を開けた。
「よう!夕べはお疲れ。少しは疲れが抜けたかい?」練習生にアドバイスしていた会長が裕子の方を見ながら言った。「はい!もう大丈夫です。昨日はお世話になりました。」そう言ってペコンとお辞儀をした。裕子の顔には、バンドエイドが貼られていたが声の調子はいつもの裕子に戻っていた。「まだ辛いものは食べられそうにないんですがね。」会長が呆れたように言う。「まずは食い気か…まあ、らしいと言えばらしいがな。」あれだけの激戦を経て、たった一晩でこれだけ元に戻る。裕子の回復力は驚異的とすら言える。「今日はまだゆっくりしろ。春休みの宿題もまだだろう。そうだな3日後から練習再開だ。」裕子は頬をポリポリ掻いた。「参っちゃうな。会長に宿題の心配までされちゃ…」会長は裕子の肩に手を置くと「留年の心配はしなくていいんだな」と言い、片手を上げて練習生の方に向き直った。「くぅ〜」裕子は思わず唸った。どうも昨日は会長といい勝負ができると思ったのに、今日は一撃で仕留められてしまった。そう言えば会長は現役時代、ハードパンチが売り物だったっけ…
とりあえずお休みなんだから、好きにしようか。ああそうだ『Winner's
Room』にも行って来よう。桜並木の中を裕子は足取り軽く店に向かった。やっぱり勝つって気持ちいい。春風が裕子の長い髪を軽くなびかせた。「やっとWinnerになってお店に行ける」そう考えると更にうれしい。3連続KO負けをしていたこの一年近くというもの、店の看板が皮肉に思えてならなかった。「私には入る資格無いんじゃない?」裕子にしては珍しくこんなひがみっぽい気持ちになっていたのだ。私も遂に「Winner」の仲間入りね♪
「こんにちは〜!」元気よくドアを開けると、店長の島口が両手を広げて歓迎してくれた。「お!その分じゃ、いい話が聞けそうだね。」島口がそう言うと、裕子はおどけて敬礼して見せた。「はい!山神裕子は5ラウンドKOで勝ちました。」「ようし!お祝いにケーキでもごちそうしよう。詳しい話はお茶でも飲みながら聞こうか。」応接室に向かいかけて、島口はニヤッとしながら振り返った。「?」「でもケーキじゃ太っちゃうからだめかな?」「あのぉ」裕子が言った。「私これでも一応女の子なんですけど。」「はははは!そうそう忘れてたよ。」島口が豪快に笑った。どうも今日は会長といい、島口店長といい、明らかに分が悪い。しかしこれは彼ら一流のお祝いだ。裕子はこんな雰囲気が大好きだった。
更に心を許せる、そして思いがけない仲間が増えたのは次の日だった。携帯から「ロッキー」の着信音が流れ、裕子をたたき起こした。友達にはセンスがないと言われるのだが、ジムのBGMとして使われているこのテーマ曲を、裕子はジムからの電話用に設定していた。「なんだろう?まだお休みだよね。」寝ぼけ眼を擦りながら、携帯を開けた。「ふあぁあ〜おはようございます。」「やっぱりまだ寝てたのか…」会長の声だ。「へっ?」時計を見ると、とっくに12時を回っている。鏡には寝癖頭を爆発させた裕子が映っていた。あわてて掻きなでようとして携帯が頭にぶつかった。いくつかのボタンが誤作動し、裕子をからかうように「ピッ、ピッ」と電子音を立てた。「何だ今のは?」「いえ何でもありません。」だんだん目が覚めてきた。「何でしょうか?まだお休みですよね?」「いくらお前でも、3日も寝ちゃぁいられないだろうが。」呆れた声が聞こえる。「大事な人から手紙が来てるぞ。早めに取りに来い。」会長はちょっと間をおいて続け、「寝癖はなおして来いよ」そう言うと電話を切った。「でぇ〜!」そう言うと裕子はベッドに身を投げ出した。「お見通しかぁ。」天井を仰いで思わず苦笑する。「それにしても」最後の『一撃』で完全に目が覚めていた。「大事な人って誰だろう?」女子校に通う裕子の周囲には男っ気がなかったし、あんまりそう言ったことには興味もなかった。「まあ行ってみるか」そう思うと手早く身支度し、髪を撫でつけながらドアを開けた。
ジムに着くと、会長は裕子の表情をうかがいながら厚手の封筒を裕子に手渡した。『何かあるわね』そんな予感がする。会長がこんな表情をするときは、決まって何かいたずらめいたことを仕掛けている場合がほとんどだからだ。それでなくともこのところ会長の『猛攻』にさらされ『グロッキー』気味になっている。「驚いてなんかやらないわよ!」裕子は覚悟を決めた。表書きには速達のスタンプが押され、ジムの住所と裕子の名前が流麗な字で書かれている。「誰だろう?それにしても上手な字ね〜」そんなことを考え、警戒しながら差出人を見た裕子の口から素っ頓狂な声が漏れた。「えっえっえぇ!」裕子の視線が釘付けになった先には磯崎彩夏の名前があった。会長が満足そうな笑顔を見せた。「なんだその声は?」思い通りになった笑いをこらえている声だ。「こっこっこっこれ!」「鶏じゃあるまいし」会長が楽しそうに突っ込みを入れる。あたりを見回すとほかの練習生までが練習の手を休めて笑っていた。背中を見せている練習生もいたが、肩が小刻みに震えている。裕子の顔がまるで火がついたように真っ赤になった。「用件はこれだけだ。ご苦労さん!」会長はそう言うとポンと一つ裕子の肩をたたいた。
自宅に戻っても裕子の胸の動悸は止まらなかった。「何で磯崎さんが?」いくら何でも返事にしたら早すぎる。震える指先がもどかしかったが、裕子は封筒の封を切った。何枚もの便せんにきれいな字が並んでいる。
『拝啓 春風の心地よい季節になりました。山神さんにおかれましては、見事な勝利を収められ、更に素晴らしい春かと推察いたします。
さて今日はいきなりお手紙を差し上げた失礼をまずお詫びいたします。昨日の試合拝見いたしました。山神さんの真の力が発揮された素晴らしい試合で、思わず大きな声を上げて応援してしまいました。どうしても「おめでとう」を言いたくて筆を執りました。』
うう〜む。文章ってこう書くんだ。思わず感心してしまう。その一方で自分が出した下手くそな葉書のことを思い出し、ジムのときよりももっと顔が真っ赤になった。後悔しても始まらないか…それにしてもあの試合、磯崎が見ていてくれたんだ。あそこで諦めなくて本当によかった。そう考えて裕子は胸をなで下ろした。
『………いきなりで厚かましいこととは存じますが、これからもおつき合いさせていただければ幸いです。それでは今後ともよろしくお願いいたします。 かしこ』
そのように結ばれた手紙には、一枚の絵葉書が同封されていた。海の中にいくつもの島が点在している美しい葉書だった。日本三景の一つ、松島の絵葉書の裏には、磯崎の住所、電話番号、メールアドレスが書かれていた。裕子はその葉書を握りしめ、夢中で携帯を操作し始めた。
『お手紙ありがとうございました。こっちはあんな葉書でごめんなさい。こんな私ですが磯崎さんの方さえよろしければ是非お友達になってください。私の住所とかはこちらです。』
気持ちが先走って何回も押し間違いをする。全く私って…裕子は自分で頭を小突いた。もう一度誤字がないか確認する。「よし!」送信ボタンに指をかける。でもまて!裕子が送信ボタンを押したのはそれから2回ほど確認した後だった。
翌朝目を覚まして裕子はまず机の引き出しを開けた。ある!磯崎の手紙が間違いなく置かれていた。次に携帯の電源を入れ、送信欄をチェックする。よし!磯崎に送ったメールが残っていた。「夢じゃないのね。」裕子はほっとした。時計を見るとまだ7時を過ぎたばかりだ。低血圧というわけではないが、朝寝坊の裕子にしては記録的な早起きといえた。ああそうだ。ついでに着信確認しておこう。そう思って問い合わせると8通のメールが届いていた。すべてがお祝いのメールだったが、5通目を見たとき「やったぁ!」裕子は大きな声を上げた。窓の外では愛犬のベッキーが不思議そうな顔で見上げていた。裕子が2才の時に来た犬だから、もう15歳以上のゴールデンレトリバーの老犬だ。裕子はベッキーの前にかがみ込み、鼻先に携帯を差し出した。「ほらほらベッキー見てごらん!ねっねっ!?磯崎さんからのメールだよ。」犬に見せたところで意味はないのだが、どうしても誰かに見せたかった。この時間、旅館の女将である母はもう帳場の方に出向いていたし、警察官だが山岳レンジャーの訓練のため、自衛隊に出向している父は山に籠もったままだった。ベッキーは大儀そうに尾を振りながら「よしよし。それはよかったね」まるで老人が幼子の頭の撫でるようにように、裕子の顔を大きな舌でベロンと舐めた。
練習再開までまだ一日あったのだが、こうなっては居ても立ってもいられない。急いでスポーツバッグにウェアやグローブを詰め込み、ジムに向かった。裕子の携帯から「ロッキー」の着信音が聞こえたのはジムに入ってからだった。会長が電話をかけているのが見える。裕子は携帯を開け、受話ボタンを押して会長に近づいた。「おい裕子!起きてるか?ちょっと顔出せや。」生のままの会長の声とデジタル変換された声が聞こえる。裕子の顔に小悪魔的な笑みが浮かんだ。「は〜い!わかりましたぁ!!」「えっ」会長の驚いた声もデジタル変換されている。振り向いた会長に、裕子は携帯を振って見せた。「こいつ。いたらいたで、挨拶ぐらいしろよ。」一本とられたという顔で会長が言った。「へへっ」ポイントを挽回したかな?そう思うとつい笑いがこぼれる。「なにかあったんですか?」聞いた裕子を軽く小突きながら会長が言った。「次の試合が決まったんだ。相手は横田鮎美。5月の連休に大宮だ。」裕子はびっくりした。「え!もう決まったんですか?」「あれだけの試合をやったんだ。お前の存在を相当アピールできたんじゃないか?」いいことって続くんだ。本当にそう思う。「よーしがんばるぞ〜!」裕子は早速トレーニングに取りかかった。
『こんにちは。試合決まりました。5月に大宮で横田選手とです。がんばりますので応援してください。山神』これでよし!さて送信っと。送信中を告げるメッセージが消えたのと、新しいメールが届いたのはほとんど同時だった。へ〜ぇ、こんなこともあるんだ。そう思いながら送信者を見ると磯崎からのメールだった。すっごい!!驚きながら内容を確認する。
『こんにちは磯崎です。5月3日に大宮市民体育館で大貫悠子選手と対戦することになりました。強い選手ですが全力でがんばりますので、時間がとれたら見に来てください。』このメールを見ると裕子はすぐさまメモリーをチェックし、磯崎の番号を呼び出し、電話をかけていた。あれぇ?かけたはいいがどう話すか全く考えていない。第一、磯崎とはリングで拳を交えたことはあっても、直接会話したことはなかったのだ。呼び出し音が一回でやみ、相手がでたとき裕子は言葉がでなかった。
『山神さんですか?』電話の向こうの声が聞いた。落ち着いた、それでいて優しい声だ。自分からかけておきながらなんて間抜けな…つくづくそう思う。ほんと私って間が悪いな。「はい。あの、磯崎さんですか?」『はい。今日は度々どうもありがとうございました。』あの葉書、今日届いたのか。磯崎と会話できるのはうれしいのだが、磯崎の立派な手紙と、自分の拙い葉書を思わず比較してしまう。「いえ、こちらこそありがとうございます。磯崎さんとお話しできて本当にうれしいです。あんな葉書で失礼しました。もっときちんと書けばよかったんですが、文章苦手なんです。」携帯を持ちながら裕子はペコンと頭を下げた。『いいえ。私も山神さんと同じところで試合できるのに、見に来てくださいなんて本当にごめんなさい。』磯崎が応えた。『どうしても直接話したくなって、お電話しようと思ったら急に携帯が鳴るんですもの、本当にびっくりしました。メールも速かったし、山神さんて本当に素早いんですね。』そういって明るい笑い声を上げた。初めて話したのに裕子は磯崎が好きになった。「せっかちなだけです。なんだか「山神」って言うと偉そうなんで、もっと簡単に呼んでください。」少し間をおいて磯崎が言った。『それでは「山ちゃん」って呼んでいいですか?』少しためらいがちな声だ。「OKです!じゃあ私は磯崎さんのことを「彩ちゃん」て呼んでいいですか?」裕子がそう言うと『はいっ!』弾んだ声が聞こえてきた。『それじゃあ5月に大宮で会いましょう。よ〜し!がんばらなくちゃ』磯崎の口調から固さが抜けてきた。裕子の方もすっかり彩夏に心を許していた。「あっ!それじゃあ提案。試合が終わったら、私の家に遊びに来ませんか?」『えっ』彩夏が驚いたように聞き返した。やっぱりいきなりすぎるよね。裕子はちょっと反省した。「やっぱり忙しいですよね。」しかし彩夏の言葉は意外なものだった。『本当にいいんですか?ご迷惑でなければ是非お願いします。』「実はうち、旅館なんで、部屋もいっぱいあるんです。露天風呂もあるし景色もいいんですよ。」裕子がそう言うと、彩夏のすごくうれしそうな声がする。『うわ〜!露天風呂!!
是非是非是非!! 私温泉大好きなんです。すっごく楽しみ!』「それじゃお互いスパッと勝ってゆっくりつかりましょう!」『はい!それじゃあ5月に』「がんばりましょうね!」そう言うと電話を切った。なんだかいい気持ちだった。「いい人なんだな」心からそう思った。「ようしガンガン行くわよ。!」裕子は口に出してそう言うと、両手の拳をグッと握りしめた。
「おい!いったいどうしたんだ?」いつもにも増した裕子のハードなトレーニングぶりに会長が声をかけた。裕子が真剣にトレーニングに打ち込むのは会長が一番よく知っている。どんなトレーニングにも根を上げずにがんばる娘、それが会長の知っている裕子だ。会長にとって一番不思議だったのは、その真剣さはそのままに、生き生きとした雰囲気が漂ってきたことだった。今までの追いつめられたようながむしゃらさが影を潜めている。「はい?」スパーリングを2セットこなした裕子はタオルで顔の汗をぬくいながら聞いた。激しい動きだったが裕子の息は全く乱れていない。「いや。なんだか楽しそうだなと思ってな」裕子が少し心配そうな顔をした。「気合いが足りませんか?」「いやそうじゃない。ただな…」会長は少し言いよどんで言葉を探した。「ただ?」裕子は会長の目をのぞき込んだ。「なかなか…、いいんじゃないか。」「はい!」裕子がうれしそうに答えた。「磯崎の手紙にはなんて書いてあったんだ?」裕子が好ましい方向に成長したのは、磯崎からの手紙に理由があるのに間違いない。「実は…」裕子が右手のグローブを口元に当てて小声でささやく。「うんうん。」会長は裕子の口元に耳を近づけた。裕子の声が更に小さくなった。「それは…?」会長がもう一歩分耳近づける。「ひ・み・つ♪」裕子の一言に、会長がカクッとこけた。裕子が悪戯っぽく笑っている。「これってカウンターパンチのタイミングでしたよね?うまく決まりました?」「お前なぁ〜!」思わず大きな声を上げた会長をほかの練習生たちが不思議そうに見ている。「コホン!」意味もなく咳払いがでる。「ようし!今のタイミングを忘れるな。あれが決まれば磯崎だって一撃でKOだ!!」そう言うと、さも楽しそうに天井を見上げて声を上げて笑った。この様子を見ていた練習生からも笑いが漏れ、ジムを明るい雰囲気に包んだ。
あっという間に2ヶ月が過ぎ、試合の日がやってきた。裕子の仕上がり具合は完璧だった。彩夏とは簡単なメールのやりとりはしていたが、電話で話すことはしていない。楽しみは試合が終わってから。どちらから言い出したわけではないが、いつの間にかそんな雰囲気になっていた。「さぁて、やるわよ!」いつにもまして気合いが入る。今日の試合は全部で8試合。すべて女子のみの試合だった。ここ数年で、女子ボクシングの広まりは素晴らしいものがある。計量を終えた裕子がポスターの前で足を止めた。今日の試合のパンフレットを拡大したものがでかでかと貼られている。メインがチャンピオンの堀江優果vs2位星野真奈美戦。ファイティングポーズをとった二人が、パンフレットの中央でこちらに鋭い視線を向けている。セミファイナルが1位の宇賀神ひとみvs4位葛城瑞穂、彩夏の試合はその次だった。裕子は思わず彩夏の名前を指でなぞった。裕子の名前は最初から二番目にあった。「まだまだ遠いな。」そう思う。前回の試合でブラッディマリーこと海老塚万里子を沈め、一躍注目を浴びるようになったものの、彩夏の方は前回堀聡美に鮮やかなKO勝利を収め、ランキングを5位にまで上げると同時に、連続KO記録を6に更新していた。一方の自分はまだ16位。やっと一勝か。今度は彩夏よりは3割方小さく印刷された自分の名前をなぞった。
「こんにちは!」後ろから声をかけられ、裕子はハッとして振り返った。「あっ!彩ちゃん。」そこには軽やかそうな服装をした彩夏がにっこりとほほえんでいた。彩夏の計量はこれからなのだろう。生き生きとした張りのある肌から、彩夏の調子がいいことがわかる。彩夏は裕子の隣に並ぶとポスターを見上げた。裕子もつられて見上げる。「いつかこういう舞台で試合したいね!」彩夏の言葉に裕子は身体がほてってくるのを感じた。「うん!今度は私が勝つけどね。」裕子がそう言うと彩夏が一瞬キョトンとした顔をした。二人は顔を見合わせ、次の瞬間明るい笑い声を立てていた。「ようし!私がんばるからね!」彩夏が言った。「そして今日、山ちゃんのとこで温泉だ!!」こうしてみると普段の彩夏は、6連続KO記録更新中のKOプリンセスの面影を全く感じさせない。高校生の美少女だ。裕子は思わず吹き出した。「なんだか温泉にこだわってない?」「だって私、これが楽しみなんだもん!」そういうと彩夏は右腕を上げ、肘を直角に曲げた。「がんばろうね!」裕子も肘を曲げ、ガッシリと腕を組んだ。「それじゃ試合の後で。」「うん!」計量室に向かう彩夏を見送りながら、裕子は新たな力が吹き込まれたのを感じた。
今日裕子が対戦する横田鮎美は、トリッキーなファイトスタイルの選手で、どちらかというと正統派ボクサースタイルの裕子にとっては非常にやりにくい相手だった。どこからパンチが飛んでくるかわからない。「シュッ」という鋭い呼吸音に身構えると、何もない。ふっと緊張が解けるのを見透かしたように横田のパンチが裕子にヒットする。パンチ自体は重くない。裕子が過去対戦した四人の中では最低とも言える。しかしそのスピードは今までの誰よりも速かった。ダメージがないのにポイントだけが奪われていく。狙い澄ましたパンチも易々とかわされ、裕子のパンチが何回も空を切る。「なにこれ!」まるで手応えがなく、まるで空気と戦っているようだ。いつもとは違った焦りに、裕子はとらわれていった。倒すか倒されるか。これが裕子のファイトスタイルだったし、現に倒すか倒されるかで決着が着いていた。もっとも倒したのはこの前の一回だけだったが…
「パシッ!」横田のパンチが裕子の顔面にクリーンヒットする。「クッ」裕子の反撃のパンチが脇腹に喰い込む前に鮮やかにステップアウトしてパンチをかわす。ボーイッシュな雰囲気の横田のパンチがヒットするたびに会場が大きくわく。隙の生じた裕子の焦りに乗じて素早く懐に潜り込み、コンビネーションを叩き込んだ。横田のショートカットにした髪が軽くなびく。もう4ラウンドも続けてこんな調子だ。重さはないが数多くのパンチを浴びた裕子の顔は腫れ上がり、身体には多くのあざが赤い花を咲かせていた。横田が今までの相手ほどの破壊力を持っていたら、もうとっくにKOされているに違いない。
「くそっ!」裕子は完全に焦(じ)れていた。こんなんじゃKOされた方がいっそ気が楽だ。相手にうち砕かれて、力つきてキャンパスに沈むならまだいい。しかしスタミナも力も十分に残したまま判定負けするなど耐え難い。裕子が打ち合いにでても横田は全く応じなかった。相手の弱点をつき、自分の長所を生かす。横田は完全にこの戦いの必勝の方程式を実践していた。 「足を止めなきゃ」そうは思っても、どうしても横田のスピードに追いつかない。焦れば焦るほど相手にポイントを稼がせていた。焦燥に駆られた裕子の頭の中にささやき声がする。『リングシューズよ』「何?今の!?」横田のパンチをガードしながら裕子は思った。『リングシューズを踏んづけてやるのよ。』「えっ!」驚いた裕子に言葉が響いてくる。『あんたはそれで苦しんだでしょう?自分が苦しむばかりでいいの?』言葉は更に続けた。『レフリーもわからないって。あんな娘なんて、あんたのパンチだったら一発でKOよ。』甘い声だ。「そんな!」叫び声を上げそうになった裕子の視界に横田のリングシューズが目に入った。「だめっ!」誘惑に戦おうとした裕子の身体が硬直する。時間にしたらほんのコンマ数秒以下だろう。横田がそのスピードを最大限に生かして裕子の懐に潜り込んだ。横田の顔が目前に迫る。その瞳には凄絶な光がともっていた。「やられる!」顔がぶつかると思った瞬間に、裕子は派手に仰け反りダウンしていた。いつの間にかキャンバスに尻餅をついている。横田の左アッパーが裕子の顎を突き上げていたのだ。やられちゃった…。しかし裕子は妙にすっきりした気持ちだった。少し頭がくらくらするが大したダメージじゃない。同じアッパーでも彩夏のパンチはこんなモンじゃなかった。大体気が付いたら病院だっもの。あれはすごかったな〜。「スリー」カウントがはいる。「それしても…」裕子は思った。「あの時誘惑に負けなくてよかった。」もし誘惑に身を委ねて横田をKOしていても、そんなことをしたら彩夏は自分のことを絶対に許してはくれないだろう。自分だってそんな自分は許せっこない。「本当によかった。」裕子は左のグローブで自分の頭を軽く小突き、パッと立ち上がった。このパンチは、馬鹿な誘惑にひかれかけた罰が当たったんだ。「シックス!」レフリーはカウントを止め、驚いたように裕子を見た。裕子の口元には照れたような笑みが浮かんでいたからだ。レフリーは頷くと試合の再開を命じた。
最終の第6ラウンドを迎え、このダウンは致命的なポイントの差を生んだ。KO以外、裕子に勝利の道は残されていない。「あせるなよ。だいじょうぶだ。」会長の声に頷く。時間が惜しい!ゴングと同時に前にでたが、横田は今まで以上に足を使い、ポイントを守る作戦にでていた。それでいて決して消極的というわけではなく、裕子の隙をうかがい、パンチを繰り出す。減点されないクレーバーな戦い方だ。裕子の一撃必殺のパンチにとらえられなければ、横田の負けはあり得なかった。今までの展開から、裕子が横田をとらえられるとは誰も思っていなかった。このまま横田が逃げ切る。圧倒的な差を付けて…ほかならぬ裕子自信もそう思いかけていた。「ただ…彩夏に笑われないようにしたい。」横田は自分の間合いで攻勢をかけ、裕子の間合いに入ろうとしなかった。「一撃でやられることはない。」裕子の冷静な部分が語りかける。「3発までなら何とかなる。」『肉を切らせて骨を断つ』の作戦しかない!そう思った裕子の目の前を一陣の風が吹き抜け、横田のロングフックがヒットする。思わずよろめいた裕子にボディアッパーが喰い込んだ。「ウボッ!」体重の乗った強烈な一撃に、この試合初めて裕子の口から呻き声が漏れ、マウスピースの先端が顔をのぞかせた。「この娘、こんな力があったんだ…」意外なほどのダメージに裕子は完全にたじろいだ。自分は横田のパンチ力を過小評価していた…重苦しい苦痛に、思わず膝を折りかけた裕子の顔面に、横田のグローブが深々と叩き込まれ鈍い音を立てる。
横田のアッパーがそのまま裕子の顔面をねじ上げた。「ぶはぁ!」唾液が撥ね散り、いやな声が絞り出される。もうとっくに裕子の頭から作戦などは消え失せていた。ガードが甘くなり、目からは精気が失せていた。朦朧とした意識のどこかで「シュッ」という呼吸音が聞こえる。この声を聞いたのは何度目だろう…。十分な手応えと裕子の苦悶の呻き声は、横田を美しい一頭の獣に変えていた。獲物にとどめの一撃を加えようとして横田の野性が牙を剥いた。しなやかな肉体が躍動し、右腕が美しい動線を描いた。「やられる!」裕子の背筋に冷たいものが走ったが、裕子の身体は横田の身体からほとばしった一瞬の、ほんの一瞬の殺気に鋭く反応していた。テンプルを打ち抜こうとして打ち下ろされた右腕を、裕子の左腕が大きく跳ね上げた。一年近く前に、彩夏に逆転のKO負けを喫したシーンの再現だった。裕子の目の前には、あまりのことに動揺し、完全に足が止まった横田がいる。全く無防備な横田の顎に、裕子の膝と腰、それに肘の力が加わった文字通り渾身の力がこもった一撃が喰い込んだ。激しい衝撃に横田の顔がまるで上下に押しつぶされたように歪んだ。裕子は横田の顎を乗せたまま、そのままの勢いで腕を突き上げた。
横田は凄まじい勢いで仰け反り、投げ出された人形のようにリングの中央まで吹き飛び、背中からキャンバスに叩き付けられた。「ガダァン!」激しい音が会場に響き、横田の勝利を予想していた観客の背筋を凍らせた。がばっと横田の上体が跳ね上がる。「オオーォ…」思わずあげられた観客の声は急激にトーンダウンした。横田の上半身がそのままの勢いで前向屈でもするように前のめりになった。マウスピースがはみ出しかけた横田の顔が両膝に埋まり、キャンバスに触れる。水色のトランクスが一瞬だが宙に浮いた。最初に叩き付けられた横田の背中が真っ赤になっている。しかし裕子のパンチに込められたエネルギーは、これだけで消費されたわけではなかった。膝の間に沈んだ横田の顔がのぞいたかとおもうと、前のめりになったのと同じ勢いで、再び背中をキャンバスに叩き付けた。いっぱいに広げられた両腕がその後を追う。運動エネルギーを与えられたマウスピースがキャンバスの上を転がり、リングから転げ落ちて消えた。もう一度激しく肉を叩き付ける音が会場に響き、横田は二、三度足を痙攣させるとそのまま動かなくなった。今度は本当に爆発するような歓声が会場を揺さぶった。
「あれっ?」大歓声に裕子はハッと我に返った。「えっえっ?今の何?」目の前には、顎を砕かれて失神した横田がセコンドに介抱されていた。ぐったりして口をだらしなく開いている。ドクターが頷いて担架の用意をするのが見える。「ええ〜っと」なんだかまだぼんやりしている裕子を会長が抱き上げた。「よーし!よくやった!!」会長が顔をくしゃくしゃにして喜んでいる。「あのぉ、私勝っちゃったんですか?」
『肉を切らせて骨を断つ』なんてかっこいいことを考えたところまでは覚えてる。「見事なタイミングだったぞ!」会長にそう言われてもピンと来ない。レフリーが近づいてきて裕子の右腕を高々と上げた。「私、勝っちゃったんだ!」やっと事態を認識し始めた裕子に勝利者トロフィーが渡された。裕子はそれを一度抱きしめ、観客の方に深々と頭を下げた。またしてもかっこいいとは言い難い勝利だったが、やはり勝利の味は格別だ。「ようし。これで彩ちゃんと温泉だ。」満面の笑みを浮かべてガッツポーズをする裕子を、観客の熱狂的な拍手が包んだ。