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 観客の熱狂に包まれながらロッカールームに戻った裕子は、シャワーで汗を流し、着替えを済ませた。カーテンを開けてでてきた裕子に、会長が氷を入れたタオルを渡してくれた。「これを当てておけ。だいぶ腫れが引くぞ。」そういうとロッカールームから出ていった。冷たいタオルに顔を埋めると、すーっと痛みが抜けていく感じがした。さて行くか。そう思うと裕子は腰を上げ、休憩室に行こうとした。彩夏と約束した場所だったし、あそこなら試合を中継するテレビがある。誰の迷惑にもならないだろう。そう思ってドアのノブをつかもうとした裕子の手が空を掴んだ。「うん?」そう思った裕子の前に、ドアを開けた彩夏が立っていた。「あっ!ごめんなさい。」彩夏は驚いたようにそう言うと、次の瞬間には裕子に抱きついていた。彩夏の髪の香りがほんのりと漂った。快い潮風のような感じがする。「おめでとぉ!!山ちゃん!」そう言うと今度はびっくりした裕子の両手を握って、激しく上下に揺さぶった。「すっごいファイトだったよぉ!」いきなりだったと言うこと以上に、彩夏のこの喜びようが裕子にとっては驚きだった。「あ、ありがとう。」そう言うのが精一杯だった。彩夏のセコンドが苦笑いしている。「おい彩夏!」そういわれて彩夏はハッとして、恥ずかしそうに裕子の手を離した。「ようし!私もがんばるからみてて!じゃあ休憩室で待っててね。」そういうと、片手を振りながら中に入っていった。
 裕子にとってこうした喜び方をしてくれる人の存在は本当にうれしかった。自分の存在が認められた。大げさに言えば生きていることが実感できた。「さあて、彩ちゃんの応援をするか!」裕子はポカリを二本買い、試合を中継しているテレビの前に陣取った。

 ……『さあてここで試合終了のゴング。チャンピオンのタイトル防衛なるか〜』テレビの声がする。「うん、彩ちゃんの勝ちだよ。」裕子は思った。「彩ちゃんが負けるわけないじゃない。」
『判定の結果は…』「彩ちゃんKOできなかったのかなぁ?相手強かったんだぁ」『ああぁっと!堀江優果、王者陥落!!新王者に星野真奈美〜』「へっ?」なんで彩ちゃんの名前がでないのよ?そんなことって…。あれっ!なんか変…?。だんだん裕子の頭がはっきりしてきた。目を開けると天井の蛍光灯が見える。ハッと気が付くと口元によだれがたっぷりと垂れている。「いやだ。わたし爆睡してたの?」あわてて涎をぬぐって辺りを見回すと、バックを膝においた彩夏が、身体をよじって必死に笑いをこらえていた。裕子の隣には、生暖かくなったポカリが二缶、口も開けずに置かれていた。「あ、彩ちゃん!?い、いつからそこにいたの?」遂に彩夏はこらえきれずに吹き出した。「プッ。あはははは。あはは、あ、いやごめん。あはは、」裕子のふくれっ面を見て必死に笑いをこらえる。「試合が終わってすぐ来たんだよ。そうしたらもう…」今度は両手を口に当てて笑いをおさえた。「あっそうだ!試合!!試合どうなったのよ!?」裕子は思わず彩夏に掴みかかるようにして聞いた。何してるんだろ私は?爆睡してた私が悪いのに…。急に彩夏の口調が暗くなる。「……実は、…KOで……」そう言うと彩夏は目を伏せた。よく見ると彩夏の目の周りが青くなり、右の頬が腫れている。「…私……」彩夏の声がが消え入るように小さくなっていく。裕子はドキッとして心臓が止まるかと思った。まさか私が寝てる間にそんなのって…。「勝っちゃったよーだ!」顔を上げた彩夏はおどけた調子で言った。裕子の左の膝がカクッと崩れた。ふう〜よかったぁ…でも!「彩ちゃん!心臓が止まったらどうすんのよ!!」まだ裕子の心臓は動悸が収まらなかった。「へへへっ。私の試合のとき爆睡してたお仕置きよ♪」そう言うと彩夏は人差し指を立て、左右に振って見せた。裕子にしてみればこれは完全にKO負けだ。会長にはカウンターパンチを叩き込んだものの、まだまだ彩夏に勝てそうにない。彩夏はくすっと笑うと、今度はもっとふくれっ面になった裕子の手を取った。「さあ、さあ。温泉♪温泉♪♪」
 
 裕子の家の中に着くまで裕子と彩夏はしゃべり通しだった。好みの歌手のことやテレビなど、およそボクシングとは関係ないことを、延々3時間にわたってしゃべったのだが、気が付くと裕子の家に着いていた。裕子の家はこのあたりでは最も格式のある旅館で、広い敷地の中には本館のほかに離れがいくつか点在していた。「お帰りなさい。」玄関では和服姿の母が出迎えてくれた。「磯崎彩夏と申します。裕子さんには大変お世話になっています。今日はお邪魔して申し訳ありません。」彩夏が折り目正しく挨拶した。「まあまあ初めまして。彩夏さんのことは裕子からうかがっていますよ。」母は笑顔で答えて「磯崎さんの話をするとき、うちの裕子は全く目を輝かしてね。主人なんか、裕子に好きな男の子でもできたのかと思ってしばらく眠れなかったんですよ。」「お母さん!」裕子が顔を赤くして母親の言葉を遮った。「全く余計なことは言わないでいいの!」「はいはい。それじゃお部屋までご案内しますよ。」そう言うと二人を、裕子の家の旅館で一番上等な離れに案内した。この部屋は裕子の曾祖父が最高の材料を使って建てたもので、確か重要文化財に指定されていたはずだ。裕子自身この離れに泊まったことはほとんどなかった。これは両親からの裕子と彩夏へのプレゼントなのだろう。裕子自身も驚いていたが、彩夏の驚きはそれ以上だった。「すごい…」そう言ったきり言葉がでない。「少し反撃できるかも」裕子がふとそんなことを考えたのは、休憩室で彩夏に喰らった強烈な『一撃』を、ちょっぴり根に持っていたからかもしれない。
 「荷物を置いたらお風呂をどうぞ。その間にお食事を用意しますからね。」裕子の母はそう言うと、本館の方に戻っていった。彩夏は相変わらず「すごい…」を連発している。「山ちゃんて、すごいお嬢様なのね。」「お嬢様って柄じゃないけど…」裕子の頬が赤くなった。「さあ!本日のメインイベント!磯崎彩夏選手が露天風呂に挑戦します〜!!さあ磯崎が強敵相手にどんな戦いを見せるか。ご注目ください〜!」裕子はそう言うと彩夏の手を取った。

 「ふ〜う〜うぁ〜。生き返るわぁ」彩夏の漏らした独り言に裕子は眉をひそめた。「なんだか年寄り臭いよ、それって。」離れの温泉は貸し切りだった。満天の星空の元、温泉にたっぷり浸かり、お湯のかけっこまで大騒ぎした二人の肌はほんのり桜色に染まっていた。とくに浴衣に着替えた彩夏は、同じ女である裕子が見ても魅力的に見えた。なんだかかなわないな。つくづくそう思う。やることなすことスマートにこなす彩夏に、ドン亀の自分。情けないとは思うがこうしてみるとこんな考えが浮かんで仕方なかった。「あの、彩ちゃん。」裕子はふと話しかけた。「何?」彩夏がこっちを見る。「彩ちゃんてさ、」そこまで言ったときに裕子の母を先頭にして、3人の仲居さんが料理を運んできた。裕子の腹の虫が料理を目にして、遂にたまりかねたように大きな鳴き声を上げる。その音を聞いた彩夏がくすくす笑いをすると、今度は彩夏の腹の虫が更に大きな鳴き声を上げた。二人はお互いに真っ赤になった顔を見あわせると弾けたように笑い出し、母たちもそんな裕子たちをうれしそうに見守っていた。
 料理がずらりと並べられる。彩夏の「すごい…」がまた始まった。「山ちゃんていつもこんなごちそう食べてるの?」感心したような彩夏の口調に、裕子は呆れたように答えた。「毎日こんなんじゃ、そのうちヘビー級になっちゃうよ。」「それもそうか。」そう言うと彩夏はまた楽しげな笑い声を上げた。「山ちゃん、さっき何か言いかけなかった?」彩夏が思いだしたようにいったとき、戸をたたく音がして、今度は裕子の父親が入ってきた。
 「やあいらっしゃい。裕子の父です。うちの裕子が大変お世話になっています。今日はどうぞゆっくりしてください。」そう言うと父はクオーターサイズの瓶に入ったワインとコルク抜きを置いた。「これ差し入れ。軽く祝杯をあげてね。」「警官が未成年に飲酒を勧めていいの?それにいつ山から帰ってきたのよ?」裕子がそういうと、「山ちゃん、あっすみません。山神さんのお父さんは警察にお勤めなんですか。」彩夏が聞いた。父は鼻の頭を掻いて言った。「まあ、今は別なところから給料もらってるんですけどね。磯崎さん、まあゆっくりしていってください。ほら、もたもたしてると料理が冷めるよ!」そういうと片手を振りながらでていった。「いいお父さんね。でも今どこにお勤めなの?それに山って?」やや混乱したように彩夏が聞いた。「あ、別にクビになったわけじゃないの。あんなタイプで山男だから、いつクビになっても不思議じゃないんだけど…そんなことはどうでもいいって!」裕子は視線をテーブルに落とした。畳が3畳は楽に敷けそうな大きな橡のテーブルの上に、料理が溢れかえり、湯気を立てていた。「さあ無制限一本勝負!動けなくなるまで行くわよ!!」裕子が言うと彩夏が続ける。「山神裕子vs磯崎彩夏の世紀の一戦です。それではゴンク!!」そういうと茶碗蒸しのスプーンをとって猪鍋をたたいて見せた。
 驚いたことに、2時間もするとテーブルの上の食べ物はほとんど二人の胃袋に収まっていた。父が差し入れたワインの瓶も、しばらく前からテーブルの足のあたりに転がっている。裕子が休むと彩夏が食べ、負けじと裕子が食べ始める。彩夏が休むと今度は裕子が食べ、彩夏が負けまいとする。鶏は仲間と一緒に餌を食べると食べた量を忘れると言うが、今の二人はまさに「鶏状態」だった。だんだん二人とも口数が少なくなり、いつの間にかどちらともなく畳の上に大の字に寝そべっていた。「山ちゃん〜生きてる〜?」彩夏の声がする。「なんとかぁ〜彩ちゃんは〜?」「もう立てない〜タオル投げて〜」テーブルの下から彩夏がこっちを見ながら言った。左手をおなかの上に載せてさすっている。「私もだめ〜ダブルノックアウトだ〜」裕子も彩夏の方を見ながら答えた。「なんだか減量大変そう…」裕子が言うと彩夏は「私4キロは増えた自信ある〜」二人は笑おうとしたが、危ない予感がして、必死に笑いをこらえた。
 やっとかつてないほどの深刻な『ダメージ』から回復して、二人が立ち上がったのは、それから一時間もたった後だった。ふすまを開けると、隣の部屋には二組の布団が敷かれていた。「ああもうだめ、腹ごなししなくちゃ。このおなか見てよ。」彩夏はそう言うとまた腹をさすって見せたが、確かにおなかがぷっくりとふくれ、彩夏のプロポーションを台無しにしていた。「なんだか3人ぐらい入ってそうね。」裕子がそう言うと彩夏は裕子の腹に手を伸ばしてきた。「山ちゃんなんか5人分だよ。」
 やっと二人とも笑うだけの余裕ができてきた。「でも腹ごなしって言ってももう遅いよ。このあたり電灯も少ないし…」裕子がそう言うと、「これでどう?」彩夏は両腕を上げファイティングポーズをとって見せた。「ようし!行くか〜」裕子が答えると、彩夏が少し真顔になって付け加えた。「でも、おなかはなしよ。アブナイもんね。」二人は顔を見合わせると、「せえのぉ!」声をそろえ、きちんと敷かれていた布団を部屋いっぱいに投げ散らかし、即席のリングを作っていた。

 それからたっぷり10ラウンドほどの時間、二人は布団の上をリングして、浴衣のまま『激闘』を演じた。「ええい!岩魚ストレートォ!!」彩夏が右の拳を突き出して、裕子の鼻の頭をちょこんと小突く。「グウッ」裕子は声を上げて仰け反って見せ、『ああっと磯崎の強打、山神の顔面に炸裂〜』すかさず中継を入れる。今度は裕子が「お返しだぁッ!鹿刺しフック!」左の拳で彩夏の頬に触れた。「ぐはっ!」彩夏が首を横にねじってみせる。『痛恨の一撃!磯崎大ダメージ!!』いつの間にか二人とも夢中になり、浴衣が乱れるのも忘れていた。『必殺技』が繰り出されるたびに華やかな笑い声が上がった。「喰らえぇ!!赤ワインジョイント!」彩夏がアッパーとフックの中間のパンチを繰り出した。

挿絵

「うばぁ!」『会心の一撃ぃ!山神グロッキー!!足下がふらついているぞ〜!!』裕子はそう言うとふらついて見せたが、布団に足を取られ、派手にひっくり返った。『ダウン!山神遂にキャンバスに沈んだ〜立てるかぁ?』ひっくり返ったまま裕子がそう言うと、すかさず彩夏が、レフリーのまねをしてカウントを取り始めた。『ワン!ツー、スリー、』裕子がふらつきながら立ち上がる。迫真の演技だったが、このあたりは裕子にとって十八番とも言える。裕子がファイティングポーズをとると、彩夏が裕子の拳をとって「できるか?」わざと低い声で聞く。レフリーの声色をまねているのだ。裕子が首を縦に振った。「さあ死闘再開!磯崎一気に決めるか〜」裕子が中継を入れると、裕子と彩夏の笑い声が更に大きくなった。あまりの騒がしさにビッキーが目を覚まし、しばらく聞き耳を立てていたが、やがて大きなあくびを一つするとまた眠り込んだ。
 激しい『必殺技』の応酬が続く。「え〜い!これで決めてやるぅ〜!猪鍋フックだ!」彩夏が打ち下ろしフックを繰り出すまねをする。「なんの!必殺の温泉アッパー!!」裕子の『必殺技』が彩夏の顎に『炸裂』すると、彩夏は「ぶはぁ!」マウスピースを吐き出すような声を上げ、大袈裟に仰け反って見せた。『究極の必殺技!!磯崎気持ちよさそうにダウン〜』そういうと、浴衣から太股がはだけているのもかまわずに、仰向けのまま大の字にダウンして見せた。
 「ゴチン!」この音は紛れもなく本物だった。「痛ったぁ〜」裕子に『KO』された彩夏が後頭部を押さえている。倒れた拍子に、床の間の柱に結構な勢いでぶつけたのだ。「きゃぁ!彩ちゃん大丈夫?」裕子はそう言うとあわてて彩夏のそばに飛び寄った。結構痛かったのだろう。彩夏の目が潤んでいた。彩夏はやっちゃった、という表情でちょっと舌を出して見せた。そして「これは立てない〜!磯崎大満足のKO負け〜!」そう言うと軽く口を開き、白目をむいて見せた。「ふふふっ」「あははははぁ」お互いに笑いが漏れる。裕子も彩夏のそばに寝そべった。フッと彩夏が真顔に戻って言った。「友達になってくれるかな?」「だってもう友達じゃない。」裕子がそう言うとほっとしたように頷いた。「今度はもっときちんとしたところで試合しようね。」「うん絶対ね!」裕子がそう言うと、彩夏はもう軽い寝息を立てていた。「彩ちゃん風邪ひくよ。」裕子はそう言って、布団を引きずって彩夏にかけようとした。「よい…しょ…ぉぉ」裕子は布団を引きずったまま彩夏の上に折り重なり、たちまち気持ちよさそうな寝息を立て始めた。