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「聖」編

 ジュゥ〜、カンカンカンカン。程良い油を身にまとった炒飯が素早い手際で中華皿に盛りつけられる。「ハイ!炒飯お待ち!!」「おう。旨そうだね」客がそう言って皿を受け取った時、店の戸が開いた。眼光の鋭い初老の男が「大衆食堂 青鳥軒」の暖簾をくぐって店の中に入ってきた。「ラッシャイ!毎度!!」店主の光鳴剣(みつなり つるぎ)が声を掛ける。男はドスの利いた声で「いつもの頼むよ。」と言うと、店の一番奥まった席に着いた。「へい!締め鯖定食一丁。〆張鶴コップで!」その声が終わらない内に、妻の光鳴梓が、大振りのコップに〆張鶴をなみなみと注いでいた。「はい。〆張お待ち。」そう言って差し出されたコップを男はグッとあおった。
 「時に大将。ちょっと気になることを聞いたんだが…」男が切り出した。「何かありましたか?榊さんのお気にとまることが?」梓がそう言うと、『榊』と呼ばれた男の眼光が更に厳しくなった。「女将さん。とぼけちゃいけねえよ。ひーちゃんのこと、ウチの若ぇ奴らが大騒ぎしてるぜ。」締め鯖を盛りつける剣の手が止まった。「もうお耳に入ったんですか?実は家でも困ってるんです。」「困ってるじゃねえだろう!年頃の娘に殴り合いなんぞ。そんなこたぁ。ウチの連中だけで十分だ!」梓が困惑しきった表情を浮かべている。この男は、青鳥軒の常連であると同時に、この周辺一帯を取り仕切る「顔役」であった。一声で、都内千人からの「若ぇ奴ら」を招集できるとの噂があった。
 「わりいこたぁいわねぇ。あんた達も人の親なら、そんなこたぁやめさせなよ。万が一やらせたら、はばかりながら、俺も黙っちゃいねえぜ。」榊の語気が荒くなる。「でも…」剣と梓が思わず同時に答えると、激しい怒号が店内に響いた。「でも…じゃねぇ!!」拳がテーブルに叩き付けられ、びっくりしたようにコップが跳ね上がった。客の何人かが顔を引きつらせて椅子から腰を浮かせた。「おやっさん、まあまあ落ち着いてくださいよ。」そばにいたメガネの男が榊の袖を引いた。「うるせぇ!てめぇは黙ってろ!大体シゲ!てめぇが言ったことじゃねぇか!!まったくてめぇは…」
 「ただいま〜!」ちょうどそのとき、裏口の戸が勢いよく開き、目のパッチリした元気な娘が岡持を持って飛び込んできた。「祖父江さんとこの出前終わったよ〜!」その娘、光鳴聖は岡持を置き、店の中を見回し、榊の姿を見つけるとひときわうれしそうな声を上げた。「ああぁっ!榊のおじちゃんいらっしゃい!」「お、おう。ひーちゃん。げ、元気だったかい?」「昨日も来てくれたのに、変なの。それにさっきの大きな声どうしたの?」不思議そうに見つめる聖の眼差しに、榊の言葉がしどろもどろになる。「いや、何、ちょっとな…」「全く、あんな大きな声出しちゃダメでしょ!他のお客さんの迷惑になるんだからね。」聖の口から、江戸っ子らしい歯切れの良い言葉が飛び出す。先ほどの榊の怒号に腰を浮かせた客達が顔を見合わせていた。「クックックッ」シゲと呼ばれた男が、忍び笑いをこらえかねて声をあげ、後頭部に榊の無言の一撃を喰らい前につんのめった。
 「また〜ぁ、乱暴なんだから!そんなおじちゃん嫌いだよ!」「でもな、ひーちゃん…」「でも…じゃないでしょ!」聖がピシャリと言うと今度は何人かが吹き出した。「お酒はほどほどにしてね。それじゃ、これからジムに行くからね〜」聖はそう言って、エプロンを外した。その声に榊がハッと我に返った。「そうだ。ひーちゃん、殴り合いするんだって…」「殴り合いじゃなくてボクシング!れっきとしたスポーツだよ。」榊の声を遮って聖が答えた。「そんな乱暴なこと…」「おじちゃんが言えるのかな〜?」聖が悪戯っぽく笑っている。「でもな、女の子ってもんはな…」「そうだ!おじちゃん今度試合が決まったんだ。来月の20日。来てくれるよね!」榊の腕に抱きつきながら、聖が言った。「お、オウ!任せときな。ウチの連中も連れて行くからよ。」聖が両手で榊の手を握り、上下に揺さぶった。「きっと、きっとだからね!」「絶対勝つんだぜ!」榊が答えると、聖が眩しいほどの満面の笑みを浮かべた。「任せて!!私強いんだから!」聖はそう言うと、右腕を上げガッツポーズをして見せた。「じゃぁね!バイバイ」「おう、バイバイ…」榊は諦めたように右手を振って見せた。「まあ、しゃぁねえか…」そうつぶやいて、残ったコップ酒を一気にあおった。「はい。締め鯖お待ち。」苦笑を浮かべた剣が定食をのせたお盆を榊の前に置いた。

 聖がボクシングを始めたのは、今から一ヶ月ほど前になる。元々体を動かすのが好きで、中学時代は陸上部に所属し、スプリンターとして都内での大会でも結構な記録を残していた。
最後の大会を引退した後、体を動かしたくてムズムズしていたのだが、つい先日近所のジムの練習生募集のポスターを見たのがきっかけだった。最初は試合など考えていなかったのだが、ジムの会長が聖のバネと瞬発力に惚れ込み、鍛えてくれるうちに、いつの間にか完璧にはまってしまった。
 
 トレーニングの準備をしてジムに着くと、村松会長が蒼い顔をして聖を迎えた。「おい!聖!お前ヤクザと何かやらかしたのか?」現役時代上位ランカーだった村松の声が少し震えている。「どうしたんですか?」「いや、ついさっき絵に描いたようなヤクザ屋さんが来てな…」会長の声が途中で途切れた。会長の視線を追って聖が振り返ると、そこに榊の他、町内会の面々がドヤドヤとジムの中に入ってくるところだった。「会長さん。また寄せてもらいましたよ。」榊の声に村松会長がうわずったように答える。「ど、どうもさっきは…」「時に、先生。俺らのひーちゃんが絶対勝てるようにお願いしますよ。」ドスの利いた榊の声だ。後ろに控える町内会の人たちも一斉に頷く。「まったく!こんな所まで来ちゃって。心配性なんだから。会長もどうしたんですか?緊張しちゃって…」「俺たちひーちゃんを応援しようって決めたんだよ。」榊の後ろにいた町内会長が答えた。「とりあえず俺たち何かしようってことになったんだけど、まず、今日からこうやって応援しに来たんだ。」穏和そうな町内会長の声に、村松の表情にホッとした色が浮かんだ。「とりあえずトレーニングに入りますので、今日の所は…」村松がそう言うのを建具屋の源さんが遮った。「おめぇ!俺たちが邪魔だって言うのか!」会長の表情がまた強ばった。「その通り!こんなんじゃ、私、気が散って負けちゃうよ!!」聖がそう言うと、あれだけ息せき切って押し掛けてきた連中が一気にシュンとなった。「まあまあここはひーちゃんの言うとおりだ。俺達ゃぁ別な形で応援しようじゃないか。」町内会長がそう言うと、源さんが続けた。「ようし!それじゃ明日9時から青鳥軒で相談しようじゃありませんか?先生も是非お越し下せえ。」一同が大きく頷く。「じゃあひーちゃん頑張るんだぜ!」みんなは口々にそう言うと、ぞろぞろとジムから出ていった。
 「ふ〜う。」村松会長が大きなため息をついた。「いったいお前は何なんだ?あの連中とどういう関係なんだ!?」流石に腕に自信がある会長でも、まだ動悸が収まっていないようだ。
「いえ、うちの近所の人たちなんです。見かけは怖いけどいい人達ですよ。」聖の屈託のない笑顔に、村松は思わず絶句した。どう贔屓目に見ても「いい人」とは思えない。何人かの腕には彫り物が顔を覗かせていたのを村松は見逃していなかった。「うん。まあよし、それじゃぁまずロードワークに行って来い。」元気よく駆けだしていく聖を見送りながら、村松は考え込んでいた。それにしても不思議な娘だ。何をするにしても自然な感じで嫌みがない。始めたばかりのボクシングにしてもあっという間に基本をマスターし、3・4年先輩の女子ボクサーと互角以上の勝負をしている。「逸材だな…いろんな意味で…」そうつぶやくと思わず苦笑が漏れていた。

 「今夜は、ひーちゃんのために、お忙しいところお集まりいただいて、誠にありがとうございます。」町内会長が挨拶する。「町内挙げてひーちゃんを応援していきたいと思いますのでみなさんよろしくお願いいたします。」「ご隠居、ご隠居。そんな長い挨拶してたんじゃ料理が冷めますぜ。」源さんが半畳を入れる。「お前さんは全く。ガキの時分からせっかちでいけないね。物事には順序ってモノが…」「あるから俺たちが何ができるかを考えましょうや。」榊が町内会長の言葉を継いだ。いい大人達がワイワイガヤガヤ、それも自分のために真剣に相談しているのを見て聖は体が火照るような感じがしていた。「よう〜し!俺はひーちゃんのデビュー戦のために、試合で穿くパンツをプレゼントする!」「馬鹿野郎!おめぇなんかがひーちゃんのパンツたぁ、10年早ぇえんだ!」みんなが口々に反対する。「でも俺、ひーちゃんのオムツ替えたことだってあるんだぜ!」「タコ!俺なんざ…」聖の顔が火がついたように真っ赤になった。隣には料理を作り終えた父の剣と、お盆を抱いた母の梓が懸命に笑いを堪えていた。「全く、無学な奴らは困ったモンだ。おめえら、それはパンツじゃなくてトランクスって言うんだ。」榊が言うと一同が感心したような表情を見せた。「ひーちゃん。おいちゃんがプレゼントしてあげるからな。何色がいい?」榊がそう言うと一斉にブーイングが起きた。「親方ぁ!そりゃぁあんまりだ!」「ずりいよ!」口々に不平を鳴らす。「うるせぇ!おめぇらみてぇにデカシリがねぇ奴らにゃ、ひーちゃんにプレゼントする資格はねぇ!!」流石に『その道』のプロだけに榊の一喝は迫力が違う。「おやっさん、おやっさん」シゲが榊の袖を引いた。「デカシリじゃなくてデリカシーなんじゃないんすか?」一瞬榊が言葉に詰まると、周りの連中が勢いを取り戻した。「そうだそうだ!」「みんなでプレゼントしましょうぜ!」今まで黙って様子を見ていた町内会長が両手を打った。「まあまあみんな。ひーちゃんを大事に思う気持ちはみんな同じなんだから、恨みっこなしでいきましょうや。」あれだけの騒ぎが急に静まる。「じゃあそう言うことで、ひーちゃんに色を決めてもらって、試合道具一式、ここにいるみんなで分担しましょうや。親父さん、お袋さんもそれでよろしいですよね?」剣と梓が頷くのを見て、町内会長は聖に視線を向けた。「それじゃひーちゃん。何色にするかな?」聖はモジモジしながら両親を見た。二人とも笑顔で頷いている。聖は頷き返すと、固唾をのんで見守る人たちの方を向いた。「じゃぁ!赤でお願いします。」元気のいい声で答えると、またさっきの熱気が蘇った。「さすがひーちゃん!いい色だ。」「よぉし!明日買ってくるぞ!」「てめぇ!抜け駆けすんじゃねえぞ!!」「よけいなこと言いやがって!このバカ!!」(ゴキュッ)荒っぽい人たちだったが、聖にとって一人ひとりが掛け替えのない大切な人達だった。

 件のリングコスチュームが届いたのは、試合の3日前だった。ジムに行く前に父親の剣が
大きな包みを聖に手渡した。「でもみんなは?」聖が辺りを見回して言った。あれだけ騒いだ面々だったのに、今日は誰ひとり顔を見せていない。「照れくさいんだって。」梓がくすくす笑いながら答えた。「あんたが学校に行っている間に、みんなで揃って来てね。試合、がんばれっ!て。」剣が言葉を継いだ。「聖、お前が決めたことだから、何も言わない。勝ち負けはともかく、みんなの気持ちに応える試合をしろよ!」「はいっ!」聖はそう答えると、大きな包みをグッと抱きしめた。
 ジムに着くと聖はすぐさま包みを開けてみた。真っ赤なトランクスには、「聖」の文字がくっきりと刺繍され、サイドには白いベルトラインが入っていた。スポーツブラもまるで聖の好みを反映したかのようなデザインで、一目見た瞬間に気に入った。早速身につけてみると驚くほどピッタリで、鏡に映った姿はまるで他人のように精悍そのものだった。聖は鏡に向かってファイティングポーズをとった。「よし!頑張るからね!!」そう口にすると、右の拳を突き出した。
 
 『赤コーナー〜、入谷ジム所属〜光鳴聖〜!』聖がコールされると会場から大歓声が上がった。いつもの面々がリングサイドで手を振っている。「頑張れ!ひーちゃん!!」「かまわねえからぶち殺せ!」いい年齢をした連中が夢中で声を掛けてくる。聖が右のグローブを挙げて答えると、一層声が大きくなった。「落ち着いていけよ。打ち合わず様子を見ろ。」聖にマウスピースをくわえさせながら会長が言った。聖が大きく頷くと同時にゴングが高らかに打ち鳴らされた。
 トレーニングは十分で自信もある。何しろ先輩選手を相手にした、ここ10日間のスパーリングで聖はパンチを一発も喰らっていなかった。しかし、眩しいくらいのライトに照らされ、大歓声に包まれると全く勝手が違っていた。いきなり相手のジャブが顔面にヒットする。「クッ!」きな臭い臭いが鼻一杯に充満する。シュン!相手選手の右グローブが聖の頬を掠めた。「このぉ!」聖のパンチが空を切り、その隙をついて相手のコンビネーションが聖を包む。「この娘もデビュー戦でしょ?何でこんなに強いのよ!」体が固く強ばり思うように動かない。ついつい足を止めての打ち合いになり、相手のパンチをいいようにもらってしまった。「あっ!ウッ!」情けない声が漏れる。完全にコーナーに追いつめられたところで1ラウンド終了のゴングが鳴った。
 インターバルのためにコーナーに戻った聖を待っていたのは、村松会長の平手打ちだった。聖の顔が激しく歪んだ。「てめー」「ぶっ殺すぞ!」聖の『応援団』から非難の声があがったのを村松会長は無視した。思わずグローブで顔を押さえた聖の両頬を両手で包んだ。「おい!今のと試合中のと、どっちが痛かった?」「?」怪訝な表情をした聖の目を見つめながら続ける。「どうだ?」「今の方が痛かったです。」「そうだ。相手のパンチはそんなモンだ。お前は何を怯えているんだ?」「怯えてる?私が!?」聖がハッとしたように繰り返した。「そうだ!無様なくらいに怯えて惨めなモンだ!!このままじゃ…」「このままじゃ?」「馬鹿な打ち合いをして、みんなの前で無様なKO負けが関の山だな。」会長が突き放すような口調でいった。「私負けない!」聖は体の中で何かが燃え上がるのを感じた。「そう!お前は負けない!!いいか、冷静になれ!足を使ってヒットアンドウエィだ。」会長の両手に力がこもる。『セコンドアウト』会長がロープをくぐってリング下に降りた。「お前はみんなの力をもらってるんだぞ!」
 2ラウンドは一転してスーッと緊張が解け、相手の動きがハッキリ見えてきた。切れのないパンチに、きごちないフットワーク。「なんで私苦戦したんだろう。」あれだけ打たれたのが馬鹿馬鹿しく思えるほどだ。会長の声も『応援団』の声もよく聞こえる。「カッセ!カッセ!ひーちゃん!!」『野球じゃないんだけど…』思わず苦笑が漏れてしまう。聖と相手選手との間には大きなレベルの違いがあり、このラウンド、聖自身それを明瞭に実感していた。 3ラウンドも中盤になると、相手選手の手数がハッキリと減ってきた。「スタミナ切れね」息が上がってきていることから見ても間違いない。聖はスピーディな攻撃で更に相手の攻撃をかわしながら、更にスタミナを削り取った。「うまくするといけるかも?」聖はKOのチャンスを狙った。ガードの甘さを突いて強打を放つ。「クフッ!」呻き声が漏れるが、相手はいっこうに倒れない。「何で倒れないのよ?!」今度は別な焦りが聖を包んだ。
 「おい!変な色気は出すなよ。」会長が聖の心を見透かしたように言った。「えっ?」「下手に打ち合うな。ラッキーパンチでも、下手にもらったら危ないぞ。」「分かりました!」聖はそう答えて、頷いて見せた。
 最終の第4ラウンドを迎えるまでに、聖は相手に圧倒的なポイントの差を付けていた。1分過ぎ、上下に打ち分けたコンビネーションで、スタンディングダウンを奪った。相手選手が重たげにファイティングポーズをとる。瞼が腫れ上がり、鼻血も滴っている。「あと一回!」どうせ勝つんなら、みんなにもっと喜んでもらおう!そんな欲がムラムラと鎌首をもたげてきた。聖のパンチの数が減り、その分パンチに重さがこもった。「ビシッ!」聖のジャブに相手が顎を挙げた。「ここだ!」聖が卓越したスピードで相手の懐に飛び込み、アッパーを突く挙げようとした瞬間、聖の顔面に真っ赤なグローブが叩き込まれ、衝撃が全身を貫いた。「ブウブッ!」意識が朦朧とし、膝がガクッと砕ける。無防備な聖のボディに真っ赤なグローブが食い込み、重苦しい痛みが聖の意識を呼び覚ました。「エグッ!!」聖の口からマウスピースがはみ出しかかった。相手が最後の力を振り絞って猛攻を掛けてくる。かわそうにも足が全くいうことを聞かなかった。「やられる!」聖の背中に冷たい脂汗が流れたとき、試合終了のゴングが打ち鳴らされ、文字通り聖を敗北の淵からすくい上げた。「はぁ…ハァ、ハァ」思わず聖は喘いでいた。会長に支えられ、コーナーに戻っても呼吸が戻らないばかりか、わずか数発のダメージのはずなのに、体全体がバラバラになりそうだった。あのパンチをもう少し早くもらっていたら…会長の言葉を聞き流した自分が、限りなく愚かで傲慢に思えた。会長にごめんなさいっていわなきゃ。そう思って口を動かそうとしたが、聖は激しくむせかえっただけだった。なんて情けない!聖は右のグローブで自分の頭を叩いた。
 「まあいいさ。」会長の優しい声に聖はハッと顔を上げた。「おい、判定の結果が出るぞ!シャキッとしろ!!」そう言われて聖は両方のグローブを胸のところで一つにあわせた。時間にしたらほんのわずかな時間だったはずなのに、今の聖にとっては無限に近いものに感じられた。聖は祈るような気持ちでその時間の重圧に耐えた。『判定の結果をお知らせします。勝者、赤コーナー〜光鳴聖〜!』一瞬ポカンとした聖の頭を会長が小突いた。聖がリングの中央まで進むと、レフリーが聖の右腕を高々とあげた。「勝ったんだ!私、勝ったんだ!!」思わず両腕を挙げてジャンプしたが、着地の時に膝が砕け、コテンと尻餅をついてしまった。「ヘヘヘッ」照れ隠しにグローブで鼻をこすった。リング下では、父と母が泣き笑いの表情を浮かべていた。『応援団』達が揃って万歳を叫んでいる。「おい!ほら。」村松会長が聖の腕を掴み、グッと立ち上がらせた。勝利者トロフィーを受け取り、一度それを愛しそうに抱きしめると聖は観客に向かって深々と頭を下げた。

 今夜の青鳥軒は町内の人々で超満員だった。「いや〜ぁ!流石ひーちゃん。すごかったよ。」町内会長が興奮したように言う。「でも、先生がひーちゃんにビンタをくれたときにゃ、おやっさんたら、腰のあたりに手を入れてましたからね。ねぇおやっさん?」シゲがニヤニヤしながら言った。「ばかやろぅ!いくら俺だってドスなんざのんでいくもんか!!」榊がシゲを小突きながら言った。村松会長の顔色がさっと変わったのを聖は見逃さなかった。どうも会長は榊が苦手でならないらしい。「これからチャンピオン目指して頑張るんだぞ!」集まったみんなが口々に言う。「はい!有り難うございました!!この次はもっと強くなって、もっともっとかっこいい試合をしますんで、これからもよろしくお願いします。」聖がそう言ってペコンと頭を下げると、更に歓声が高まった。「ようし!未来のチャンピオンを胴上げだ!!」誰からともなく声があがると、もう次の瞬間には聖の体が宙に舞っていた。二回、三回宙に放り上げられる聖の瞳がいつの間にか潤んでいた。

 お祭り騒ぎが終わり、聖が布団の中に潜り込んだのは、日付が変わってしばらくしてからだった。確かに勝つには勝てたものの多くの課題があった。まずは精神的なバランス。相手を圧倒しているはずなのに、冷静な分析ができず相手のカウンターを浴びてしまった。次には打たれ脆さ。ただでさえ華奢な体つきの聖は、カウンターとはいえ、あまり強いとは言えないパンチでグロッキー気味に追い込まれてしまった。「なんとかしなきゃね。次の試合は…」そう考えているうちに、聖はいつの間にか微かな寝息を立てていた。

 翌日、村松会長が指摘したのは、聖自身が分析した通りの点だった。「メンタルな点は成長で補えるにしても、最大の問題は打たれ脆さだ。」会長が言った。「こればかりはどうしようもない。お前はこのマイナスをどうやって補う?」会長は聖自身に解答を考えさせた。「足を使って相手を翻弄し、ポイントを稼ぐ戦い方はどうでしょう?」「概ね合格だな。これからはその方向でトレーニングするぞ!」会長の言葉に聖は深く頷いた。

 聖の次の対戦相手が決まったのは、しばらくしてからだった。「2戦目の相手が決まったぞ。」会長が写真付きのクリップボードを手渡した。聖はゴクッとのどを鳴らしてクリップボードを見つめる。髪の長い元気の良さそうな娘の写真がそこにはあった。「ええと〜、山神裕子選手。後藤ジム所属。2戦2敗。えっ!二つともKO負けですか!?」聖の口調に非難めいたものが含まれている。「まあそう言うな。文句があるならこのビデオを見てからにしてくれ。」会長はそう言うと、カセットをデッキに差し込んだ。「あっ!この選手知ってる。」聖は声を上げた。「磯崎選手じゃないですか!この人相手じゃ勝てる方が不思議ですよ。」この時まで、磯崎彩夏は5戦全勝、すべて相手をキャンバスに沈めてのKO勝ちをおさめていた。しかしテープが進むにつれ、聖の口数が急に少なくなり、画面を食い入るように見詰め始めた。あの「KOプリンセス」が完全に圧倒されている!フットワーク、打ち合いともに山神の方が上回っていた。「まさかこんな…」聖は驚きを隠せなかった。そして2ラウンド終盤、山神のボディアッパーが磯崎の鳩尾を深々と抉った。磯崎の目が大きく見開かれ、マウスピースが派手に吹き出された。苦悶の表情がありありと映し出される。辛うじてクリンチでしのいだものの、もはや勝負の帰趨は明白に見えた。3ラウンドも山神が磯崎を圧倒した。磯崎のガードが甘くなっているのが聖にも分かる。「チャンスね!」聖がまさにそう思って瞬間、山神が見事な右フックを放った。「決まった!?」思わずそう思った聖の目に信じがたい画面が飛び込んできた。磯崎が力を振り絞り、山神の右腕を跳ね上げたのだ。不意をつかれた山神が大きくバランスを崩す。山神の驚愕した表情がアップになり、次の瞬間その顔が大きくぶれた。磯崎の渾身の右アッパーが山神の顎を完璧に打ち抜いている!山神が大きくのけぞり、ガクッと膝をついたかと思うと、そのまま前のめりにキャンバスに叩き付けられた。上体が大きくバウンドし、はみ出しかかっていたマウスピースがこぼれ落ちた。磯崎の必殺の一撃を浴び、失神した山神の表情がアップになる。うつろな目と口元に溜まった泡がダメージの激しさを物語っていた。一方では磯崎がキャンバスに膝をつき、大きく喘いでいた。大きく上下する肩の動きから見ても、その苦しさが尋常ではないことがうかがえる。ビデオが終わっても聖はしばらく言葉がなかった。
 「…だ?」会長の声に聖はハッと我に返った。「はい?」「どうだ?その分じゃ、相当毒気を抜かれたようだな。パンチ力はお前より遙かに上、テクニックにしても上かも知れない。足と頭をうまく使いこなさないと悲惨だぞ。」会長の言う通りだと聖は思った。他ならぬ聖自身がそう思っていたのだから…「はい!一生懸命頑張りますんでお願いします。私負けません!!」 
 「ひーちゃん。相手決まったんだって?」店に帰ってきた聖を見るなり、源さんが話しかけてきた。「エッ!本当かい?」周りにいた客達も口々に問いかける。いつもの席で〆張をあおっていた榊の手が止まった。「はい!今度は山神裕子っていうハードパンチャーと対戦です。今回も応援よろしくお願いします!!」「オオォ!」みんなが声を上げる。「今度こそKO勝ちだぜ!」「おおさ。ひーちゃん、必殺技でブッ倒せよ!」すでにこの連中は、自分が飯を食いに来ていることを忘れている。「必殺技って言われても…」聖は頭をかいた。「コラ!おめぇがよけいなこといいやがるから、ひーちゃん困ってるじゃねぇか。」榊が口を挟んだ。「時に源公、おめぇ、ひーちゃんの試合が決まったのがいつ分かったんだ?」そう言われた源さんが嬉しそうに答える。「流石親方!よくぞ聞いてくれました。いえね、ひーちゃんのジムの近くで仕事をしてたら、あの先生がブツブツ言ってましてね。こりゃ〜一大事と思って、2時間ほど窓の外で聞き耳立ててたんでさぁ。」得意満面の源さんを数人が取り囲んだ。「この野郎!サボリやがって!!」「てめぇ、ついでにのぞいたんじゃあるめぇな!」「いいや、こいつのことだ!出歯亀したに違いねぇ!!」青鳥軒は今夜も荒っぽい声で一杯だった。

 試合前の晩、聖はなかなか寝付くことができなかった。考えれば考えるほど嫌なイメージが浮かんでくる。山神のラッシュに翻弄され、手も足も出ない自分。顔面にストレートを喰らい、鼻血を吹き出してグロッキー状態の自分。強烈なアッパーで顎を粉砕され、高々とマウスピースを吐き出して、失神して大の字になっている自分。こんなことを考えたらいけないことなど百も承知している。そんなことは分かっている!今までのトレーニングは、これ以上のことはできないといえるぐらいにやった。自分で言うのも何だが、完璧といっても言い。しかし、とりとめもない不安だけに抑えようがなかった。パチッ。聖は枕元のスタンドのスイッチを捻った。ポォッと暖かみのある光の輪が聖の枕元に広がった。みんながプレゼントしてくれたリングコスチュームが丁寧に折り畳まれて、光に包まれていた。「そうだよね。一生懸命やるしかないよね。」聖は自分に言い聞かせた。「明日頑張ろうね。」まるで誰かに語りかけるようにそう言うと、真っ赤なリングコスチュームを抱きしめ瞼を閉じた。

 「強い相手だ!」そうは思っていたが、リングの上で向かい合うと、山神が発散する殺気に近い気迫がビンビンと突き刺さって来るような気がした。中央で向かい合いながらレフリーの注意を聞いているときも、山神の鋭い視線が聖を突き刺した。「私負けない!」聖は必死に山神の視線に負けないように見詰め返した。

 「いいか!足を使っていけ。トレーニングの成果を見せて見ろ!!」会長はそう言って聖の背中をパシッと叩いた。「ハイッ!」聖は元気よくそう答えるとリングの中央に飛び出していった。

 キュッキュッ。山神がいきなり距離を詰める。シュッ!山神の口から鋭い呼吸音が漏れ、真っ赤な固まりが風を切り、聖の前髪を激しい勢いで跳ね上げた。右のストレートを間一髪かわしたものの、聖の背中に冷たいものが流れた。「一発喰らったらアウトね…」情けないようだが、前の試合のダメージを考えると、あながち間違いとは言えないだろう。ブン!聖の顎を狙ったアッパーが突き上げられる。「クッ!」辛うじてバックステップでかわす。「速い!」聖は思った。「しかし…」暴風雨のような山神の攻撃をかわしながら、聖の冷静な部分が告げていた。山神の動きはビデオで見たものとはまるで違う!あの磯崎をKO寸前まで追い込んだような動きではない。強打を狙ってくるが、とても計算されているとは思えないような組み立て方だ。次第に聖の眼が山神のパンチの速度に慣れてきた。ハァッ!裂帛の気合いとともに山神が左のフックを繰り出す。聖がサッとかわすと、空振りした山神がバランスを崩し、そこに大きな隙が生じた。ドズッ!鈍い音を立てて聖の右フックが山神のレバーを抉った。「ガハァッ!」山神の呻き声が聞こえたかと思うと、凄まじい勢いで真っ赤なグローブが聖めがけて振り下ろされた。『あぶねぇ!』『ひーちゃん』聖の耳に『応援団』達の声が響いた。あるいは空耳だったのかも知れないが、聖は確かにその声が聞こえた気がした。キュッ!聖のリングシューズが軽快な音を立て、聖は右後方にステップアウトしていた。間髪を入れず、がら空きの山神の顔面に左フックを叩き込む。

挿絵1

「ブッ!」仰け反った山神に聖のコンビネーションブローが吸い込まれるように決まり、たちまち山神の顔を腫れ上がらせた。怒りに燃えた山神がそれでも打ち返してくる。聖が再び軽快なフットワークでかわす。「やっぱりね…」聖は自分のパンチの軽さを認めざるを得なかった。自分がこれだけの連打を浴びたら、まずダウンは必至、KO負けだって十分考えられる。いや、山神のようなハードパンチャー相手では、間違いなくもうとっくに試合は終わっているだろう。ヒットアンドウェイで相手のスタミナを削り、ポイントを稼ぐ。これで行こう!今回は馬鹿なミスはしないわよ!!前回の苦い思い出が聖の骨身にしみていた。「そろそろ終了ね。」時間の分析まで正確だった。山神が歯を食いしばってパンチを繰り出そうとしたところで、1ラウンド終了のゴングが鳴り響いた。

 「よし!まずはよくやったぞ!」会長が聖の頭をなでながら言った。「油断はしてませんよ!」聖がハッキリした口調でそう言うと会長が眼を細めた。「うん。だが一発には気をつけろ。まだまだ危ないぞ!」「ハイッ!」聖が歯切れのいい返事をする。会長が差し出したマウスピースをくわえ、左のグローブで調整する。ふっと正面を見ると、山神がセコンドのアドバイスを聞きながら、荒い呼吸を抑えかね、大きく肩を上下させている。「いけるかも!」フッとそんな気持ちが沸き上がってくる。聖は苦笑しながら、自分の頭をグローブで小突いた。

 第2ラウンドも山神は積極的に打ってきた。しかしスピードが目に見えて落ちている。前のラウンド以上にパンチが当てやすくなってきている。パシッ!聖のパンチが山神を捕らえ、乾いた音をたてる。山神の大振りなパンチがまた空を切った。素早くステップインした聖のワンツーに山神の頭が激しく捻れ、マウスピースを剥き出しにした口からは、唾液が左右に飛び散った。スリーのストレートが山神の顔面にもう一度クリーンヒットし、ほんの一瞬だが山神の膝がガクッと崩れた。反撃の苦し紛れのパンチを鮮やかなステップでかわし、今度は山神の土手っ腹に打ち下ろしの右を食い込ませた。ガードが下がったところに、ラッシュを掛け、山神をコーナーに追い込んだ。山神の攻撃の限界点はとっくに越え、聖のパンチがあっけないほど簡単に食い込んでいった。ガードを固め防戦一方になった山神に対して、まだ聖は警戒を解かなかった。山神を一撃で葬った磯崎の右アッパーが聖の頭にこびりついていた。昨夜の悪夢もまだ脳裏から消えていない。打たれ脆いだけに、未だに山神の一撃は驚異だった。『いけ〜!ひーちゃん!!』『そこだぁ!!』応援の声が聞こえるが、聖には焦りがなかった。まだ2ラウンド。後半分ある。じっくり行こう!頑張るぞぉ!!聖の切れのいいパンチがまた山神のボディに食い込んだ。
 3ラウンドになると、山神の顔はもはや原形をとどめていなかった。両頬が無惨に腫れ上がり、やはり無惨に腫れ上がった唇からマウスピースをのぞかせている。しかし塞がりかかった両瞼の奥には、勝利を狙い、血走った瞳が潜んでいるのを聖は見逃していなかった。「狙ってくる!」聖は確信した。山神のリングシューズから軽快な音が絶えて久しい。完全にベタ足の状態だ。捻りを利かせた右ストレート、これが来る!後から考えると不思議だったが、聖の直感がそう教えており、聖自身全くそれを疑っていなかった。山神の右足がスッと下がり、右のグローブが山神の胸の高さまで上がった瞬間だった。聖の類い希な瞬発力が遺憾なく発揮された。それこそ『目にもとまらぬ速さ』で、体を大きく沈み込ませながら山神の懐に飛び込んだ。山神の右グローブが運動エネルギーを与えられるより速く、聖の右アッパーが山神の鳩尾に食い込んでいた。

挿絵2

「ウゲェッ!」耳障りな呻き声が漏れ、熱い息が聖の右頬を通過していった。一瞬硬直した山神の体が急速に弛緩していく。山神が聖の右グローブを抜き出そうとするが、聖は必死の思いでグローブを抉り込んだ。山神が膝を崩し、聖に寄りかかってくる。山神の顔が肩に触れたかと思うと、鳩尾を押さえたまま、ズルズルとキャンバスに沈んでいった。山神の長い髪がベッタリを背中に張り付いている。そんな背中がブルブル震えている。「ニュートラルコーナーへ!」レフリーに命じられ、コーナーポストにもたれかかって初めて聖は我に返った。「えっ!倒しちゃったの!?」何だか本当に自分が倒したのか信じられない思いがした。リングの中央では山神が必死の形相で立ち上がろうとしている。ググッと膝がキャンバスから離れた。「立たないで!お願い!」聖は祈るような気持ちだった。その祈りが通じたかのように、山神の右膝が砕け、再びキャンバスに沈んだ。倒れた勢いで、山神が派手に大の字になる。山神の腫れ上がった両頬が、急速にはち切れそうなほど膨らんだ。両腕のグローブがピクピクッと痙攣したかと思えた時、赤コーナーからタオルが投げ込まれたのが見えた。それがひらひらと宙に舞った時、まるで鯨が潮を噴くような勢いで、山神がマウスピースを吹き上げた。「ブバッァ!」真っ赤に染まったマウスピースを先端にして、唾液と胃液が吹き上げられた。まるでスローモーションのようにマウスピースが宙を舞い、キラキラした光の玉が飛び散っていく。ボトンと音を立てて転げ落ちたマウスピースの上に、タオルが覆い被さった。ゴングが激しく打ち鳴らされる。「ウボッ!ガハッ!!」悶絶した山神の呻きが、大歓声にかき消されながらも聖の耳に届いた。聖にはこの声が、山神の無念の叫びのように聞こえた。「勝っちゃったんだ!KOだよ!!」全身を喜びが突き抜ける。『応援団』がコーナーに集まってきた。『やった!ぜひーちゃん!』『ヒュー!お見事!!』町内会長が年に似合わずガッツポーズをしている。「う、うっ、うっ」聖が両手の拳を握りしめながら前屈みになる。「いやったぁぁ!!」聖が両腕を上げて大きくジャンプすると、『応援団』の連中の興奮が最高潮に達した。口々に意味不明な叫びを上げている。父や母が手を取り合って頷いている。その横では村松会長と榊が抱き合って、喜びを爆発させていた。
 なかなかリングの中央に戻ってこない聖に呆れたのか、レフリーが歩み寄ってきて、聖の右腕を高々と上げた。歓声がまたひときわ大きくなる。ふと見ると、山神がまだリングの中央に横たわっていた。すでにグローブとリングシューズを外され、担架に載せられる直前だった。口元から垂れ落ちている唾液をセコンドが拭っている。両方の太股がピクピクッと痙攣した。そんな山神を見下ろしながら聖は漠然と思っていた。圧勝と言っていい勝利だったが、何か違和感があった。うまく言葉には出せないけれど、何かが違う。「何なんだろうな?」首を傾げた聖を『応援団』の連中が取り囲み、胴上げを始めた。一回、二回。聖の体が、眩しいライトを浴びながらリングの上を高々と舞った。「でも!私、頑張る!!」手荒い祝福を受けながら聖は心に誓った。この人達の気持ちに答えられないようじゃ江戸っ子の名が廃るってモンよ!「一生懸命頑張るからね!」声にはならなかったが、宙に舞いながら聖はそう叫んでいた。

挿絵3