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「聖」編
後編
 「聖、次の相手はこいつだ。」村松会長がクリップボードを手渡しながら言った。「海老塚万里子。7戦4勝2敗1分4KO。スピード・テクニック・破壊力どれをとっても水準以上だ。」聖は聞きながら資料をめくった。「あっ!この人、山神選手と対戦してるんですね!」
「そうだ。それもKO負けしてる。この試合はいわく付きでな、いろいろあって奴はこの試合以来しばらくリングを離れていたんだが、復帰第一戦でおまえと戦いたいそうだ。」会長の顔に苦虫をまとめて数匹噛み潰したような表情が浮かんだ。「?」聖は小首を傾げながら会長の顔をのぞき込む。「山神戦が尋常じゃなくてな。リングから永久追放されても不思議じゃなかったんだが…」「そんな凄いことやったんですか?どんなことやれば永久追放されるんですか?」不思議に思った聖が聞く。「『百聞は一見に如かず』、だ。まあこれを見て見ろ。」会長はそういうと『山神裕子VS海老塚万里子』のラベルの貼られたカセットをデッキに入れた。見覚えのある長い髪の選手がアップで映る。聖が2戦目で対戦し初めてのKO勝利を勝ち取った選手だ。山神の鳩尾にたたき込んだパンチの感触と、勝利が決定した瞬間の気持ちを、聖はついさっきのことのように思い出すことができた。一方の海老塚万里子は長いポニーテールで、純白に茨模様をあしらったリングコスチュームを身につけ、何とも小馬鹿にしたような、冷たい笑みが浮かんでいる。
 「ひどい!」聖の口からこの言葉が漏れたのは何回目だったろう。それほど海老塚の反則は目に余った。レフリーの死角をついてリングシューズを踏みつけ、動きを止めての攻撃。ダウンした山神の顔を故意に ―聖にはどうしてもそう見えた― 踏みつけるなど、ビデオを見ながら、聖は血が熱くなるのを感じた。「なんて奴!」ダウンしてそのままキャンバスに沈むかと思われた山神がグッと立ち上がる。「がんばれ!」思わず両手の拳を握りしめて叫んでいた。深刻なダメージを受けた山神は立っているのも辛そうだ。そこにリングコスチュームを朱に染めた海老塚が牙を剥いて襲いかかる。「!」すさまじい速さで山神の右ストレートが繰り出され、海老塚の顎をねじ上げた。マウスピースが抉り出され、唾液の尾を引きながらリングの外に消えていく。完全に弛緩しきった海老塚の体が、抱きかかえるようにしてコーナーポストに激突した。「やったぁ!」まるで自分が勝ったように聖は歓声を上げていた。
 「ゴボン」会長の咳払いに、はっと我に返る。「だいぶ夢中になってたな。」会長の声に若干の冷やかしがこもっていた。「当然です!あんな汚い奴、私許せません。機会があったら私がやっつけてやりたいくらいです。」いつになく激しい聖の言葉に会長が苦笑した。「だから、今度そいつと対戦するんだって…」「あ、ええと、」聖が途端にしどろもどろになる。
会長は聖の頭に手を乗せ、少々強めに撫でた。この娘がここまで熱くなるのは珍しい。持ち前の正義感の強さがそうさせるのだろう。会長はそう思ったが、口には出さなかった。「でもな、」表情を改めて言葉を続ける。「無理にとは言わない。断ってもいいんだ。」聖がキッと、睨むような顔つきをした。「おまえに勝ち目がないからじゃない。十分勝てると思うんだが、こんなむちゃくちゃなファイトをする奴だ。たとえ勝っても、無用な怪我をしかねない。」「でもここまで決まっているのに…」聖は当然すぎるほどの疑問をぶつけた。ここまで決まっていて試合をキャンセルしたら、よけいなトラブルもあり得ることは十分に予想できる。それに会長の様子もいつもとは違う。「どうも今回は妙なんだ。」「妙?」聖がおうむ返しに聞いた。「お膳立てが出来過ぎている。確かにカードとしては悪くはないんだが…」「考えすぎですよ。会長!」聖が言った。「とにかく試合は試合。任せてくださいよ。」聖はいつになく強気だったが、さっき見たビデオの熱がまだ冷めきっていないようだ。「でも慎重に考えよう。」会長はそういうと立ち上がった。「今日はこれまでにしよう。そうそう、かみさんが甘酒作ったんだが、飲んでいくか?」「はいっ!」会長の言葉に聖はひときわ元気に答え、生き生きとした笑顔を見せた。

 聖が家のそばまでくると、聞き慣れた素っ頓狂な声が聞こえてきた。「やあやあやあ。青鳥軒に集うご町内のみなさん!これを見てくれ!!」東京の下町にある大衆食堂『青鳥軒』の中で、小柄なメガネの男がやや甲高い声をあげ、大きなポスターを広げた。「なんだ、なんだ?」「どうしたの?」店内で食事をしていた連中が一斉に男の方を向いた。「あっ!これひーちゃんじゃねえか!?」驚きの声が揚がる。男が示したポスターには、この食堂の看板娘、リングコスチューム姿の光鳴聖が、ファイティングポーズをとっている写真が大伸ばしで印刷されていた。「おお!さすがひーちゃん。粋だね〜。」町内会長が感心したように頷く。「へっへっへ〜」男はポスターをかざしたまま得意そうな声を上げた。「『フェアリー光鳴』て言われてるそうですよ。ひーちゃんの華麗なフットワーク、まさに妖精ですよ。」「シゲ!てめえいつまで戸口に突っ立っていやがるんだ。」ドスの利いた声に「シゲ」と呼ばれた男がビクッとする。「あっ!おやっさん。いらしてたんスか?いるならいると一言ってくださいよ。」「バ〜カ!飯食うのに何でてめえなんかに断らなくちゃいけねえんだ。後ろを見ろ!後ろ!!」そういわれてシゲが榊の後ろを見ると、ジムから帰ってきた聖がスポーツバッグをぶら下げ、モジモジしながら立っていた。「あっ、ひーちゃん。ね、ね、ね、これ見てよこれ!」シゲがポスターを聖に見せようとしたときに榊の雷が直撃した。「バカヤロゥ!とっとどきやがれ!ひーちゃんが入れねえじゃねぇか。モタモタしていやがると隅田川に叩き込むぞ!」「まあまあ榊さん。落ち着いて、落ち着いて。」町内会長が榊をなだめた。町内会長は、聖の高校で結成された「聖ファンクラブ」の連中2、3人が、ここしばらく聖の後をつけ回し、つい昨日、榊によって、本当に冬の隅田川に叩き込まれたのを目撃していた。まあ町内会長自身、あの連中のしつこさに不快感と不安を持っていただけに助けもしなかったが…「まあ、シゲさんも座りなさいよ。ひーちゃん練習ご苦労様。寒くなかったかい?」年の功だけあって、町内会長の心配りはさすがだった。
 「はい!大丈夫です。」寒風にさらされ、赤くなった聖の頬にえくぼが出来た。「わぁ〜!私の写真だ!」聖は声を上げた。「こうしてみるとなんだか私って強そうですよね。」聖が言うと、店内にいた荒くれ男たちが笑い声をあげた。「でもさ、ひーちゃん本当につぇえよ!」建具屋の源さんが言った。「これで4戦全勝だもん。すげえもんさね。」まるで自分のことを自慢しているかのような調子だ。「おう!この前もKO勝ちだもんすげえぜ!」
カウンターでニラ玉ライスを食べていた隆さんが続けた。「大将、景気のいいところで、『ひーちゃんメニュー』ってやつを作ったらどうだい?」「何だてめぇ!ひーちゃん喰おうてかぁ!」源さんが息巻く。「バ〜カ。特別メニューだよ。これだけ食えばロハってやつ。」「それいいかもしんねえな!」誰かが相槌を打った。
 「馬鹿な連中はほっといて。時にひーちゃん、なんだか嬉しそうだぜ?」榊が聖に声をかけた。ドスの利いた声だが、聖に対してはとてつもなく甘くなる。これは常連たちの一致した意見だった。「はい!海老塚万里子選手です!」聖の答えにガヤガヤ激論を交わしていた連中の視線が聖に集中した。「えっ!本当かい?」「5連勝いただきだぜ!」興奮気味の声があがる。「それはそうと、どんな選手なんだい?」町内会長が聞いた。「海老塚、海老塚…。」聖が答えようとする前に、首を傾げていた源さんが出し抜けに大声を上げた。「ああ!あれだ!!」「おめえはもうちっと静かに喋れねえのか。」榊に注意されたが、源さんの声からは興奮が抜けなかった。「親方、あれですよあれ!」「あれってなんだ?」「だからあれ、」「あれじゃわからねえだろうが!」榊がたまりかねて言った。「通称『ブラッディ・マリー』7戦4勝2敗1分4KO。帝都女子学院大学理事長のご令嬢。」シゲが得意そうに言った。「おめえしってんのか?」榊に言われてシゲがますます得意そうになる。「任せてくださいよ。おやっさん!」「この野郎!今俺が言おうとしたのに!!」掴みかかろうとした源さんの襟首を榊が片手でつかんだ。「よし、もうちょっと詳しく言って見ろ!」シゲがメガネをあげて説明し始めた。「これがひどい奴なんですよ。このブラッディ・マリーってのも、相手を滅多打ちにして、その血でコスチュームにバラの花を咲かせるってことですぜ。」床屋の健さんが立ち上がって叫ぶ。「じゃあひーちゃんあぶねえじゃねか!」「馬鹿野郎!ひーちゃんが負ける訳ねえだろうが!!」何人かが怒鳴りつけた。「まあまあ、おちついておちついて。ここはこの私の顔を立てて、よろしゅうござんすね」シゲの口調が芝居かかった。「この二敗って言うのが、磯崎彩夏と山神裕子にKOされてるんだよね。」シゲはそういうと、ニヤッとしながら榊の方をみた。「山神って言うとおめえ!」「そうそう!この前ひーちゃんがKOした奴。あの髪の長い娘。」シゲは得意満面だ。「土手っ腹にひーちゃんのパンチをくらってゲロ吹き上げた奴!」「おう!おう!あれは派手だったな!」何人かが興奮して立ち上がった。「おまえさんたち、ここは飲食店だよ。汚い言葉はやめな。」町内会長が注意する。「そうそう全く教養のない奴はダメっすよね」シゲが腕組みをしながら頷いてみせた。
 「なにお〜」健さんがいきり立ち、シゲが榊の背中に隠れた。「まあまあ。それで。」町内会長に促され、シゲが顔をのぞかせる。「それもね惨めきわまりない負け方ですぜ。反則たっぷりやった挙げ句に、山神にKOされて、ションベン漏らしたんスよ。血まみれじゃなくて、ションベンまみれのマリー様ですぜ。」町内会長が眉をしかめたのにシゲは気づかずにまくし立てた。「おいシゲ!おめえ人様のこといえねえな。その汚え言葉はやめな。たまに役に立ったかと思えばこの様だ。だからおめえは。」榊の一言にシゲがシュンとし、健さんがニヤニヤした。「まあ汚い話はほっといて、今回もひーちゃんの活躍が期待できそうだね。」町内会長が聖に話しかけた。「ハイッ!頑張りますんで、また応援よろしくお願いします!!」こういうのも5回目になるが、聖の声にはいつになく力がこもっていた。

 「会長!私やります。」次の日ジムに入るなり聖はそういった。「おい。まだあわてなくとも…」そういいつつ会長の方が少しあわてていた。聖がこんな様子を見せるのは初めてだ。
マッチメイクばかりではなく、聖の方もいつもとは違う。漠然とそんなことを感じた。「でも、私みんなの前で宣言しちゃいました!」聖が悪戯っぽく笑った。「ま、まさかお店で?」会長の声がうわずる。会長が榊を筆頭に、青鳥軒の常連たちを苦手にしていることはよくわかっていた。何回目かの聖の祝勝会で、酔いつぶれた一人 ―何でも榊の家で世話になっているとのことだった― の懐からドスが目の前に転げ落ちたのが、どうしても忘れられないらしい。聖がくすくす笑いをした。「う〜ん。なら仕方ないか。」とは言いながらも、まだ会長は諦めきれないものがあるようだ。「私大丈夫です。あんな奴には負けません!」「よし!わかった!!」迷いを振り切ったように会長が言った。「とにかく足を使ってヒットアンドウエイ、今回はKOなんか考えるな!」聖は力強くうなずいた。「よし。じゃあ始めるぞ。まずはストレッチしてから、軽く走ってこい。会長の指示を受け、聖は更衣室に入っていった。

 「ハッ!ハッ!シュッ!!」白い息とともに鋭い呼吸音が聖の口から漏れる。隅田川沿いをランニングしながら、上体を動かし、まるで相手がいるかのようにパンチを繰り出す。素早いフットワークが身上の聖の身のこなしは、このあたりの名物になっていた。「お姉ちゃん頑張ってね!」黄色い園児帽をかぶった子供が手を振った。「うん!頑張るよ!」答える聖の呼吸は全く乱れていなかった。デビュー以来4戦、自分自身危なっかしいと感じながらも、いつの間にか、ボクサー姿が板に付いてきていた。
 「よう、ひーちゃん精がでるね。」ベンチに腰掛けた榊が言った。「あれ?おじちゃんこんなところでどうしたの?」聖が足を止めて聞いた。「そうさな、ちょっとひーちゃんと話してえことがあってな。」そういうと榊は腰を上げて歩き出した。「話って?」後に続きながら聖が聞いた。こんなことは初めてで少々面食らっていた。「この頃のひーちゃんのことさ。」榊が聖の方を見つめながら言った。「なんだかいつもと違うんじゃねえのか?」「ううん。そんなことない!いつもの聖だよ。」聖はそう答えたが、何か絡まるような違和感を感じていた。「ならいいんだがな。俺の取り越し苦労か…」今おじちゃんはどんな目をしているんだろう。聖はそう思ったが、サングラスをかけた榊の目を見ることはできなかった。「ひーちゃんがいうんなら間違いねえ。ただな、」「ただ?」はっと我に返って聖が繰り返す。「『自分』てぇものは大切だってことさ。」「?」意味をつかみかねている聖の背中をポンとたたいた。「さあて、今回も応援させてもらうぜ。ひーちゃんらしい戦い方見せてくれよな。」榊はそういうと、一拍おいて聖の頭越しに「おめえらも、そう思うよな。」と植え込みに向かって声をかけた。ガサガサ音を立てて植え込みの中から人が現れたとき、聖は本当にびっくりした。中には木の枝を両手の持ったり、背中にさしている者もいる。どうやらカモフラージュしようとしているらしい。「さすがはおやっさん。我々の存在に、気が付くとは!」「伊達に空襲から生き延びちゃいねえぜ。」口々にそういった。みょうちくりんな格好をしているが、店の常連たちだった。「馬鹿野郎そんな格好をしてうろつくんじゃねえ!パクられたらどうするんでぇ!」榊にそういわれ、常連たちが顔を見合わせた。誰一人として怪しくない出で立ちの者はいない。「まったくおめえは!」お互いが言い合うが、どうも連中は自分だけはまともだと信じているらしい。「この連中も心配してたんだぜ。いいか、おめぇら!ひーちゃんがそういってんだ。俺たちも腹ぁ括って応援するぜ。」榊の言葉に男たちが大きく頷く。聖は目頭が熱くなるのを感じていた。聖が右手を目のところにもっていこうとするのを脇目で見た榊が言った。「それにしてもなんてぇなりだ。そんな格好でウロウロされたらひーちゃんが迷惑するぜ。なあひーちゃん?」そういうと大きな声で笑い、聖も思わずつられ、泣き笑いの表情になった。

 「ええと、第4試合『光鳴聖vs海老塚万里子』今回は写真入りだね。うんうん、ひーちゃんも強くなったんだよ。」試合のポスターを手にした町内会長がしみじみとした口調で言った。「それにしてもすかしたお嬢様ですね、この海老塚って。ひーちゃんにメタクソにされるのも知らずにねぇ」脇からのぞき込んだ源さんが言った。「あ、第3試合も凄そうですぜ『シャロン藤堂vsクリス如月』ハーフのかわいこちゃん対決で、グッと来ませんか?」涎を垂らさんばかりに見つめる源さんの後頭部に榊の鉄拳が炸裂した。「グヘッ!」不意の一撃を食らった源さんがポスターに顔を埋めた。「あっ!きたねえ。涎付けやがって!」周りの連中がさらに源さんを袋叩きにする。今回の試合は今まで以上の大舞台でいやが上にも力が入る「負けられない!」いつも以上に聖はそう感じた。みんなの気持ちをもらっているんだもん。負けたらいけない。自分のためじゃない、みんなのために勝つんだ。同時に「負けるはずはない」そうも思う。自分がKOした山神に負けた相手だ。それもあんな派手な負け方で。第一、あんな汚い奴に私が負けるはずないじゃない!聖は、聖にKOされてキャンバスに沈む海老塚の姿をくっきりとイメージすることができた。「今回も勝つんだ!」聖は試合までの数週間、自分にこう言い聞かせてきた。
 
 「ちょっと早く来すぎちまったか。頑張るんだぜ、ひーちゃん。」聖を試合会場まで送った榊が後部シートから声をかけた。「うん!」聖がそう答えると、榊は片手をあげ、黒塗りのベンツを発進させた。榊の車を見送った聖が選手入り口に向かうと、ひとりの透き通るほどの白い肌をした娘が、やはり入り口の方に向かって歩いてくるところだった。北欧系の美しい顔立ちは遠くからも人目をひいた。「あれ?あの娘どこかで…」聖は記憶をたどったがすぐには思い出せなかった。「あ、そうか私の前の試合の娘だ!」この娘も、今日同じリングで戦うのかと思うと、強い仲間意識を感じた。「あの、」思わず聖はその娘 ークリス如月ー に声をかけていた。「?」クリスの顔に不思議そうな表情が浮かんだ。「あ、あの、」クリスの不思議そうな顔を見ると、聖は途端に言葉を失った。「今日頑張ろうね」それだけ言うがやっとだった。そんな聖をクリスはつまらなそうな表情で一瞥すると、足早に立ち去った。聖の顔が真っ赤になる。何で声なんかかけたんだろう?いきなり見ず知らずの人間に声をかけられたら誰でも面食らうよね。そう考えて聖は自分の頭を軽く小突いた。「おい!大分早かったな。」聖が振り返ると会長が後ろに立っていた。「あの娘も緊張しているみたいだな。ホントなら今日のおまえの対戦相手はあの娘だったんだ。そのうち一戦交えることになるかもな。」「強いんですか?」聖が聞く。「まあそこそこといったところだ。よく言えばバランス型といったところかな。」会長はそう答えると。聖の方を向いた。「誰であろうと勝つからな!」会長の力強い言葉に聖の顔がほころぶ。「ハイッ!」聖は会長に負けないような力強さでそう答えた。

 「いいか聖。海老塚の破壊力はおまえより遙かに上だ。戦い方から言えば、山神戦と同じになる。どんな手を使ってくるかわからん。反則もあるかもしれんが十分に注意しろ。」聖の目をのぞき込みながら会長が言う。「足を使ってポイントを稼げ。それができればおまえの勝ちだ。いいな!」ロッカールームのベンチに腰掛けた聖が力強く頷く。「よし!行くぞ!!」会長がボトルを入れたバケツを手に立ち上がった。続いて立ち上がった聖の全身がロッカールームの鏡に映っていた。聖は鏡に向かってファイティングポーズをとった。真っ赤なリングコスチュームに身を包んだ精悍な女子ボクサーの姿がそこにあった。トランクスには「聖」と大きく刺繍がされている。「よし!」思わす声が漏れる。そんな聖の隣で会長が目を細めていた。

 聖がリングに上がると観客の歓声がひときわ大きくなる。5戦目を迎え、聖も会場を見回す余裕が出来てきた。『応援団』はリングサイドの一番いいところに陣取り、横断幕を振っている。聖が右手をあげると、町内の連中が唾を飛ばしながら声援を送ってきた。「頑張れ!ひーちゃん!」「ションベン娘をぶっ殺せ!」、「姉ちゃん、オムツは大丈夫か〜!」いつもながら過激な応援に聖は思わず苦笑する。そのとき赤コーナーからワインレッドのガウンに身を包んだ海老塚がリングに上がった。整った顔立ちで、十分に美形の要素は満たしているが、何ともいえない冷たさを漂わせている。
 海老塚がガウンを脱ぐと、白地に茨がデザインされたリングコスチュームに包まれた精悍な体が現れた。レフリーの指示でリングの中央で向かい合う。海老塚の冷たく殺意のこもった視線が聖に突き刺さる。事実、聖は全身の肌がチクチクするように感じた。「負けるもんか!こんな奴に。」聖の内側から熱いものがわき上がってくる。聖は海老塚の視線を跳ね返すかのように海老塚に視線を突き刺した。

 第一ラウンド開始のゴングに聖は勢いよく飛び出した。海老塚はオープンスタイルに構え聖を迎撃する形をとる。「シュッ」聖のジャブが一閃し、海老塚がガードするより早く、その顔面に食い込んだ。「くっ!」海老塚が呻き声を漏らし、ガードが上になったところに聖のボディフックがきれいに決まった。たちまちのうちに海老塚をロープに追いつめる。山神に惨敗して以来、リングから遠ざかっていたためか、スピード、ガードともに驚くほどのレベルではない。聖の攻撃が続き、左がきれいに決まる。「ブヘェ!」惨めな声が海老塚の口から絞り出される。「よし!」もう一歩前に出た聖の左頬に、きれいな鍵型を作った海老塚の右腕が襲いかかった。「あぶねえ!」聖は『応援団』の声をはっきり聞いた。聖の瞬発力は、海老塚の狙い澄ました海老塚のパンチの速度を遙かに凌駕した。海老塚のパンチが聖の髪を激しく嬲った。大振りした海老塚の右脇腹に腰の入った聖の右腕が叩き込まれる。

挿絵1

軽快なフットワークと正確に急所を打ち抜くパンチ。聖が「フェアリー」のリングネームを奉られた所以だ。特に伸びのあるストレートは『フェアリースピア』と呼ばれていた。聖自身は少々てれくさい感じもしていたが、まんざらでもなかった。早くも第一ラウンドから「ブラッディマリー」は「フェアリー」の猛攻に一方的に晒されていた。

 2ラウンドも中盤になると、海老塚のリングコスチュームには何片かの赤い花びらが現れてきた。上気した海老塚の顔や腹には赤い痣もいくつも見える。一方の聖は全くと言っていいほどパンチをもらっていない。また聖のパンチが海老塚の鳩尾に食い込む。膝がガクッと崩れるが、海老塚はかろうじてクリンチでしのいだ。「はぁ、はぁ」海老塚の息が荒い。「今に後悔するわよ。」息を切らせながら海老塚が言った。「うぶっ」そういいながら海老塚はこみ上げてくるものを必死にこらえている。「出来るものならやっみなさいよ!」聖はそういうと海老塚の両腕を振りほどいた。海老塚の動きが更に鈍きなってきた。まるでスローモーションでも見ているかのように動きが読める。「狙える!」聖は確信した。自分のパンチ力では一撃KOは無理にしても、もう少しダメージを蓄積させればKO勝利は手中にある!「フェアリー」のステップが更に切れ味を高めていく。

 第四ラウンド終了を告げるゴングが高らかに打ち鳴らされる。顔を腫れあがらせてコーナーにもたれかかる海老塚の一方で、聖は息を切らすこともなく椅子に腰掛けた。「ふぅ」軽く心地よい疲労感に包まれ、聖が思わず声を漏らす。「いい調子だな。でももう少しペースを落としていけ。」会長が、聖のマウスピースを洗いながなら言った。「これからは、言ってみれば未知のラウンドだ。今までの4回戦とは違うぞ。」聖がコクンと頷く。「わかりました。変な欲はかきませんよ。」聖がそう答えると会長が安心したように頷いた。そんな会長を見て聖は少々後ろめたいものを感じた。「いいか。自分の持ち味を崩すな。そうすれば…」「私の勝ちですよね」聖がそういうと、会長が満面の笑みを浮かべた。大きな手を聖の
頭に乗せ強めに撫でた。「よし!行け!!」そういうと洗い清めたマウスピースを聖の口に押し込んだ。

 「未知のラウンド」にもかかわらず聖の優勢は覆らなかった。海老塚の口からうめき声が漏れる回数が多くなった。バシッ!聖のパンチが海老塚の顔面にクリーンヒットし、乾いた音を立てる。「いいぞ〜ひーちゃん!!」「もう一発かましたれ!」町内会の『応援団』の声が大きくなる。「ブラッディマリー」は自分自身の血で、そのコスチュームの赤いバラを咲かせつつあった。しかし、試合当初から聖に突き刺していた、冷たく殺意のこもった視線は未だ消え失せてはいなかった。「一発を狙ってくる!」聖は確信していた。山神をKOした時感じていた直感がそう告げている。聖はわざと大振りのパンチを放ち、隙を作った。「ウオォォ!」海老塚が咆哮したような声を上げ、全身の力を込めた右フックを放つ。完璧に決まれば、聖をKOしてなおおつりが来る破壊力を秘めた一撃が聖に襲いかかる。襲いかかる海老塚を前に、聖は猛獣を前にしたハンターのように冷静だった。聖の読み通りの軌跡を描く海老塚のグローブをかいくぐり、聖の上体が前屈みになり、聖のグローブがきれいな動線を描いて海老塚の顔面に叩き込まれた。「バギュ!」鈍い音と同時に海老塚の上体が大きく揺れる。海老塚の顔面から「引き抜いた」聖のグローブにねっとりとした鼻血が尾を引いて、キャンバスにしたたり落ちた。完璧なカウンターに海老塚の膝が崩れる。「とどめ!」聖が一歩前にでたところ、海老塚が苦し紛れの左を放つ。「ボグッ」いやな音を立てて聖のレバーに突き刺さる。「ぐっ!」聖の口から呻き声が漏れる。しかし勢いに乗った聖はダメージを感じなかった。「お返しだぁ!」聖のレバーブローに今度は海老塚が無様なうめき声を、ーこの試合何度目なのかわからないがーを漏らし、キャンバスに崩れ落ちた。キャンバスに跪き、グローブで鳩尾を押さえている。キャンバスに押しつけられた口からマウスピースが、たっぷりと唾液を身にまとって押し出された。しかし、その後、ブラッディマリーが舌なめずりをしていたことに気づいた者は誰もいなかった。

 「やったぜ!ひーちゃん」「お見事!!」大歓声が聞こえる。聖はニュートラルコーナーに向かいながら、『応援団』に向かってガッツポーズをとって見せた。ニュートラルコーナーに身を委ねる。ひんやりとした感じが、背中を通して火照った聖の体に心地よく伝わった。

 「ファイブ」カウントが続く。海老塚がロープをつかんで立ち上がりかけた。「シックス!」
立ち上がった海老塚がバランスを崩し、ロープに寄りかかった。山神をKOしたときは、相手の様子に祈るような気持ちだったが、経験は聖を大きく成長させていた。「もう一回ね」「ナイン!」海老塚がファイティングポーズをとった。「でも、ここまで反則しないなんて、反省したのかな?」聖は思った。「でもあんなことやる奴は私が許さないから!」「ファイト!」レフリーの声ももどかしく、聖は海老塚に襲いかかった。海老塚の口からまた無様な呻き声が漏れ始めたとき、第五ラウンドが終了した。

 最終ラウンドも聖の一方的な展開となった。「フェアリー」が軽快なステップを刻み、海老塚を翻弄する。海老塚はすでにダメージが膝に来ていた。両腕だけでかろうじてガードしている。そのガードももはや意味をなさなくなりつつある。フッと海老塚のガードが下がり、顔面ががら空きになった。「ここだぁ!」聖の直感がそう告げ、次の瞬間には必勝の念がこもった右のフックが繰り出されていた。「シュッ」聖の鋭い呼吸音は、しかし、完結しなかった。「グゥゲェ…」聖は自分の口から絞りだされた声が信じられなかった。前のめりになった聖の目に、鳩尾に深々と食い込んだ海老塚のグローブが見えた。「カァッ!」海老塚が更に力を込めると、聖のリングシューズがキャンバスから離れた。海老塚がグローブを引き抜くと、その後には真っ赤な痣が刻み込まれていた。ふらつきながらかろうじてバランスを保つ聖に海老塚が襲いかかる。「どうしてこんな力が…」まるで鉛でも埋め込まれたように体が言うことをきかない。一転して守勢に立たされた聖の脳裏に不信感がよぎり、それが一つの輪郭を結んだ。「罠だったんだ!」一方的に聖の攻撃を浴びたのも、聖のパンチ力を十分に計算した上でのことだろう。もしかすると、あのダウンだって…そして最終ラウンドまで持ち込んだのは、聖を消耗させそのスピードを殺すためだった。「敗北」の二字が聖の頭をよぎる。「ボグッ!」海老塚のボディブローが聖の脇腹に食い込み、聖は身をくねらせた。「でも。」聖は会場の時計に目をやった。大きいランプが「58」を示している。「あと1分、持ちこたえれば!」そう考えると再び希望がわいてくる。「頑張れ!ひーちゃん!」、「もう少しだぜ!」『応援団』の声が聖に力を吹き込んだ。海老塚の腰に腕を回し、かろうじてクリンチで逃れる。鳩尾のダメージは深刻だった。口の中に酸っぱいものがこみ上げてくる。「今までの元気はどうしたの?」小馬鹿にしたように海老塚がささやいた。聖の体に熱いものがこみ上げる。「あんたなんかに負けるもんか!」聖がそういうと海老塚が鼻を鳴らし、あざけるように言った。「それじゃぁ、少し楽しませてね。」そういうと海老塚はさっと聖の腕を振りほどくと、猛攻をかけた。海老塚の強打が聖の体に容赦なく叩き込まれる。「あと30秒!」腫れ上がったまぶたを通して、電光掲示板の残り時間が見える。「逃げる気なの、卑怯ね。」海老塚の嘲るような声が聞こえる。「何ぉ!」思わず右腕を振り上げた聖のベルトラインの上に、海老塚の右が、急角度に叩き込まれた。「ぐぶっ!」聖の目が大きく見開かれ、マウスピースがはみ出しかかる。がら空きになった聖の顔面に、海老塚のコンビネーションが叩き込まれ、聖の顔を左右に激しく揺さぶった。「グウゥゥ…」聖はかろうじて踏みこたえた。口一杯に血の味がする。今や「フェアリー」の翼は完全にもぎ取られ、そこに立っているのはグロッキー状態の、無様な女子ボクサーにすぎなかった。今聖を支えているのは、精神力のみだ。「ち、畜生!」最後の力を振り絞った右ストレートを放つ。「負けない!」この一撃にみんなの気持ちがこもってるんだ!「バグッ!」渾身の一撃が『フェアリースピア』が、海老塚の左の頬を醜く歪ませる。海老塚がゆっくりと前のめりになってゆく。「勝った!」勝利を確信し、ふっと力が抜けた聖の顎を、海老塚の右アッパーが打ち砕いた。「ゴギュッ!」聖の顔が垂直方向に押しつぶされ、体がすさまじい勢いで仰け反り、ロープまで吹き飛んだ。反動で投げ出された聖の無防備な顔面に、海老塚の右ストレートが抉り込まれた。聖の背中にロープが喰い込み、真っ赤な帯が刻印された。何かにぶつかったような衝撃に聖の意識が微かに蘇る。「?」薄れかかった意識の中で聖は、自分が海老塚の胸の中に顔を埋めているのを認識した。「どうしたの子猫ちゃん。後10秒だよ。」海老塚の声が上から降ってきた。

挿絵2

「子猫なんかじゃない!」そう叫ぼうとした、しかし聖の口から絞り出されたのは、血反吐にまみれたマウスピースだった。「ウゲェェ…」更に腹の中から、血反吐がこみ上げる。「ゴブゥッ…」海老塚の胸の谷間に聖の血反吐が流れ込み、スポーツブラの真ん中に深紅の大輪のバラを咲かせた。「ウッ、ブ、ブ…」聖の口から意味にならない声が絞り出され、意識を失った体が、キャンバスにのめっていった。大歓声が遠くから聞こえるような気がする。みんなの声がする…「うっ、クッ!」聖の右のグローブが微かに動いたが、それが最後だった。レフリーはカウントをとるまでもなく、試合を終了させた。両手足を一杯に伸ばした聖の体が、ゴングに抗議するかのように激しく痙攣し、それっきり動かなくなった。うつろな聖の瞳に、勝ち誇った「ブラッディマリー」の姿が映っていたが、完全に失神している聖には何の感情も呼び起こさなかった。
 
 このKO負けのダメージは深刻で、聖が意識を取り戻すのに丸一日かかった。全身がガクガクするするような激痛が、朦朧とした聖の意識を急速に現実に引き戻した。「う、うぅ…」海老塚に顎を「粉砕」されたため、言葉が出ない。ベットの周囲の人たちが腰を上げ、聖の顔をのぞき込んだ。両親がいる。『応援団』のみんなも。そんなみんなの前でやられちゃったんだ。そんなふがいない自分に、ふさがりかかった目から涙があふれ出した。「ごくろうさん。よく頑張ったな。」父親の剣がそういうと聖の涙をぬぐってくれた。隣では、母親の梓が、涙目になりながらうなずいている。「ごめんね…」聖はそういうのが精一杯だった。
 
 翌日、検査を受けるために、聖は一人で病室を出た。まだフラフラするが、わざとそうしたのは、これ以上みんなに余計な心配をさせたくなかったからだ。「私はもう大丈夫!」そんなところを見せたかったのだ。まるでおもりが付いているように体が言うことをきかない。華奢な聖にとって、海老塚の強打は遙かに耐久限度を超えていた。危なげな足取りでかろうじて歩く。「!」膝が砕けた聖がバランスを崩した。倒れかかった聖を誰かがさっと抱える。「ありがとう」そういった聖の前に、クリス如月がいた。「あ、あの…」聖はそれ以上言葉が出なかった。言いたいことはいっぱいあるのに…そんな自分がじれったい。クリスの透き通りように白い顔が、一瞬朱を刺さしたように赤くなった。「…いいえ…」クリスはそういいながら、聖を助け起こしてソファーに座らせると、そのまま立ち去った。こんなみっともない私に驚いたんじゃないか?聖がこんな考えをするのは珍しい。今回の敗北は、肉体的にはもちろん、精神的に少なからぬダメージが刻み込まれていた。自動販売機のアクリル板に、包帯とガーゼにくるまれた聖が映っている。「ようし!元気!!」そういうと聖は両手で頬をピシャリと叩いた。「あいたたた」切れた口の中に痛みが走ったが、なんだか、しょぼくれたいやな自分とちょっぴりお別れできたような気がした。
 検査を終え、やっとの事で聖が病室に戻ると、会長が見舞いに来ていた。ベッドサイドににスズランの鉢植えが置かれている。「あ、ありがとうございます。」バランスを崩しながらも聖は会長に頭を下げた。「まあ横になれ」会長はそういうと、聖を抱えるようにしてベットに横にさせた。「今回、俺がもっと早く止めていればこんなことにはならなかったんだ。」会長の口調がいつのいなく重かった。「すまん!」そういうと会長が深々と頭を下げた。「最後までやらせてくれて、ありがとうございました」聖がきっぱりとした口調で言った。「あの時、」口の中にまだ血の味がしたが聖は言葉を続けた。「あの時、タオルが入っていたら、きっと私、勝てたのに余計なことをされたって思ったと思います。」会長が驚いた顔で聖を見つめる。「完璧にやられちゃって、かえって清々してますよ。」そういうと精一杯の笑顔を見せた。会長が頷くのを見ると聖の瞼が急に熱くなる。顔を背けた聖の目にスズランの鉢植えが見えた。聖は会長に気づかれないように、毛布で涙をぬぐった。「会長。これって会長が持ってきてくれたんですか?」聖がそういうと、会長の表情に笑顔が戻った。「いや、俺じゃない。実は…」そう言った会長の視線を追うと、スズランの花の中に、小さいカードが挿してあった。聖が手を伸ばそうとすると、会長はそれより早くカードを引き抜き、聖に渡してくれた。『クリス如月』の名前が書かれていた。「えっ!あの娘がお見舞いに来てくれたんですか?廊下であったときには何にも言わなかったのに…」聖はとても不思議な気がした。「どうもあの娘は、ひどい照れ屋のようだな。真っ赤な顔をして、その鉢植えを俺に押しつけるようにして置いていったよ。」会長はそういうと声を上げて笑った。聖の表情が途端に暗くなる。せっかくお見舞いをしてもらったのに、お礼も言えない。せっかく来てくれたのに。義理堅い聖にはとんでもなく大きな失敗をやらかしたような気がしてならなかった。会長もそんな聖の性格をわかっているだけに、聖が今何を考えているのか、手に取るようにわかった。「逃げるように帰ろうとしたんだが、とりあえずお店のマッチを渡しておいた。その気があれば連絡してくれるだろう。」そういうと聖の額に手を乗せた。「疲れてるだろう。ひとねむりしろよ。」優しい言葉に聖がコクンと頷いた。

 「?」すっかり回復し、ランニングを始めた聖がふと足を止めた。見覚えのある後ろ姿があった。その娘はなにやら小さいものを片手に、目的地を探しているらしい。「あの」聖が声をかけると、その娘 ークリス如月ー が振り返ってハッとしたような表情を見せた。「あのクリス如月さんじゃありませんか?」聖がそう尋ねると、クリスは微かに顎を引いてうなずいた。「お見舞いありがとうございました。よかったぁ!やっとお礼が言えた!」聖の笑顔に引き込まれたかのように、クリスの表情に微笑みが浮かんだ。「そうだ!でもスズランのお礼がまだだった!」そういうと聖はクリスの両手を掴んでいた。今考えると苦笑してしまうのだが、この時聖は無我夢中だった。「ちょうどお昼だから、ご飯ご馳走させて下さい。うちは食堂だがら気にしないで。」困ったような顔をしたクリスを引きずるように、聖は青鳥軒の暖簾をくぐった。

 「お父さん!ご飯ちょうだい!!」聖の声に店の中にいた連中がびっくりしたような顔をした。聖のこんな元気な声は久しぶりだったし、聖が一人の娘を引っ張っていたからだ。「ねえ。この人クリス如月さん!ほらこの前お見舞いしてくれたんだよ。」聖が夢中になって言う。「あっ!いらっしゃい。お世話になったようでありがとうございました。」剣が言うと、梓が椅子を引きながら、二人を座るように促した。「ねえ、何でもいいから注文して!」当惑したような顔をしたクリスに聖がいう。なんとしてでもお礼をしなければ気が済まない。「おう何でも注文しな。うめぇんだぜ。」常連たちが口々に言う。建具屋の源さんが椅子を引きずって、いつの間にか、ちゃっかりとクリスの隣に陣取っている。「ねぇどこに住んでんだい?おれ運転手だから、どこへでも送ってやるぜ」そういった源さんが、何人かの男にどつかれる。「何が運転手だ!馬鹿野郎!!」「お嬢ちゃん、馬鹿な野郎は気にしねえでくんな。」クリスの顔に笑顔が浮かぶと、男たちも男たちも笑顔を浮かべながら、源さんを引きずって席に戻った。

 「ごめんごめん。荒っぽいでしょ。うちのお客さん。」聖があわてていった。「でも、みんないい人なんだよ。」クリスがうなずくと、常連たちが嬉しそうな顔をした。「それで、何にする?何でも言ってね。私がご馳走するから!」聖はそういいながら、メニューをクリスの前に置いた。「『ひーちゃんメニュー』」クリスはそういうと、メニューを指さした。「え、でもこれ」聖があわてていった。常連の連中の発案で生まれたメニューだが、量が半端ではなかった。具まで大盛りの特大ラーメン&焼き肉とハンバーグにエビチャーハンにスパゲティのおかず&ジャンボ餃子&大盛りライスにみそ汁サラダ、そして最後に杏仁豆腐のデザートと言ったコースで、一見めちゃくちゃだったが、すべて試合後聖が好んで食べるものが集められていた。もちろん全部食べるのには数日かかってはいたが…。サブタイトルで「ひーちゃんに挑戦!」と書いてあったが、聖を「負け」させたくない常連たちの気持ちもあって、ほとんどやけくそのような、膨大な量になってしまっていた。「私、挑戦する…」クリスがそういうと、聖も叫んでいた。「お父さん!わたしも!!」

 二人がかろうじて『最終ラウンド』まで戦い終えたのは、もう終電も目前の頃だった。二人ともお腹をさすりながら、駅まで歩いた。あれだけの分量を、年頃の娘が食い尽くしたのは奇跡と呼んでよい。満腹の火照った体に川風が快い。「ごめんなさいね。遅くなっちゃって」聖がそういうと、クリスが首を振った。「うれしかったの。」つぶやくように言った。「え?」聖が聞き返す。「試合前に声をかけてくれたこと」聖はその時のことを思い出した。「でも、いきなり声かけちゃって、びっくりしたでしょ?」聖の言葉にクリスがうなずく。「『ありがとう。頑張ろうね』って言いたかったのに、ダメなんだ私。」クリスが川面に目をやりながら言う。「だからどうしても話をしたかったの。押しかけてごめんね。」思い切ったようにそう言うと、そういうとまた川面に目をやった。クリスの口数が多くなってきた。「うううん!私の方こそ嬉しかった!あのスズラン大事にしてるよ。」聖がそういうと、クリスは聖の方を向いて、決心したように言った。「また来ていいかな?」聖の顔がみるみる明るくなる。「うん!大歓迎!!いつでもきてね!」そういうとクリスの手を取って、上下に揺さぶった。クリスの顔に愛らしい笑顔が浮かぶ。「じゃあ、これから『聖』っ呼んでね!でこの名前、たまに男と間違えられるんだけど、私好きなんだ!これから一緒に頑張ろうね!!」聖が笑顔でそういうと、クリスはうなずきながら、「私の本名は、『如月・クリスティーネ玉枝・・』。なんだか野暮ったいでしょ。『玉枝』って」聖が不思議そうな顔をする。「だからね『クリス如月』っていってるの。」そういうと微苦笑を浮かべた。「でも、聖は『玉枝』って呼んでいいよ。」そういうと右手を差し出した。聖も右手を差し出して、二人は力一杯握手を交わした。川面に反射するネオンが、宝石のように美しく煌めいていた。