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後半

 決勝までの一ヶ月、さつきの調整は完璧だった。スタミナ・気力ともに充実し、今までにないほど調子もいい。体の切れなどは自分でも驚くほどの仕上がり具合だった。「絶対負けない!」そう思いながら、会長が体を入れてつくってくれたロープの隙間からリングに上がる。武道館は超満員、熱気が体にまとわりつくようだ。向こうのコーナーからは、神鳥谷がちょうどリングに上がるところだった。階級はさつきと同じ。不思議なことに、ここまで世界の強豪を退けてきた選手のように思えない。あくまで自然な感じで、これだけの大舞台でも力んだり緊張している様子もない。「なんか変ね」さつきはそう思った。リング上でレフリーから注意を受けるとき、向かい合っても殺気のようなものは全くなかった。「ほんとに大丈夫かしら」そんなことを感じているうちに1ラウンド開始のゴングが打ち鳴らされた。
 作戦の変更は必要ない。すべてはローで神鳥谷の足をいかに早く止めるか。さつき全神経はこの一点に集約された。「ヒュッ」さつきの鋭いキックがまた空を切った。「バスッ!」神鳥谷のボディフックがさつきの脇腹をえぐる。神鳥谷はさつきの反撃のパンチをスェーバックでかわし、また自分の距離をとった。スッスッサッ、神鳥谷がステップを踏む音が耳につき、さつきの焦りを誘う。「大振りするな!」会長の指示が飛ぶ。私だって大振りしたくてしているわけじゃない!心の中でさつきは叫んでいた。さつきのキックが空を切るたびに、神鳥谷のパンチがさつきのボディに食い込み、その度にさつきのスタミナを確実に消耗させていった。馬鹿馬鹿しいがこの展開の繰り返しだ。こうなったら、捕まえるしかない!さつきはもう一発もらうのを覚悟で、いきなり距離を詰めた。ボディフックを放った、神鳥谷の右腕を捕らえにかかる。「とった!」神鳥谷のグローブに指が触れた瞬間そう思ったが、バズッという音が響き、さつきの頭が一瞬にして真っ白になった。神鳥谷のグローブがさつきの顔面に食い込んでいる。きな臭い臭いがたちまち鼻腔一杯に充満する。「クッ!」ガードを固めようとしたさつきの足が止まった。この瞬間を待ちかまえたように、神鳥谷の猛攻がさつきを襲う。上、下、右、左、巧みにパンチが打ち分けられ、優位なはずのスタミナも怪しくなる。「このぉ!」無我夢中で繰り出したパンチが空を切り、腕が完全に伸びきった瞬間、神鳥谷の連打がさつきの全身に降り注ぐ。「うっ!」、「ぐっ」さつきの口からはさっきから情けなくなるような呻き声が漏れるだけだ。亀のようにガードを固め、防戦一方になったところさつきを、1ラウンド終了のゴングが救った。
 「なんだか変。」口に含んだ水をバケツに吐き出したさつきは思わずつぶやいた。「なかなか捕まえられないな。」「ええ、でも次のラウンドは大丈夫です。タイミングがつかめてきました。」会長が目を細めた。竹中会長には、さつきが決して負け惜しみでこう言っているわけではないことが分かっていた。「ようし、次のラウンドはもう少しペースを落とせ。キックのスピードが落ちてるぞ。」会長がいった。「セコンドアウト!」会長がリングから降りながら片目をつぶって見せた。2ラウンド開始を告げるゴングが打ち鳴らされ、新たなパワーを得たさつきは勢いよくリングの中央に飛び出していった。
 2ラウンドも神鳥谷のフットワークは健在で、むしろスピードが増してきたように思える。これは神鳥谷のペースが上がってきたのと、集中的に狙われたボディのダメージが蓄積した結果、自分の反応速度が落ちていることをさつきは冷静に分析していた。このまま同じことを繰り返すほど、馬鹿じゃない!違和感を感じ通しだった神鳥谷の攻撃に、何かしらのパターンめいたものがあるのを、さつきは感じ取りつつあった。もう少し、もう少しで神鳥谷の攻撃パターンが掴める。さつきは神鳥谷の攻撃パターンのデータをとるための攻撃を仕掛け、その度にしたたかに逆撃を受けた。しかしそんなことは折込済み、覚悟の上だ。ダメージにしても最小限で済んでいる。右肩が下がったとき、ジョイント。ステップアウトする前に、心持ち唇を噛む癖がある…大体の癖が分かってきた。「シュッ」鋭い呼吸音と同時に神鳥谷の首が左に傾いた。左フックはおとり、本命は右のアッパー!さつきの目前を神鳥谷のグローブが風を切って通過し、さつきの前髪をかすめた。間違いない!!完全に攻撃を見切った!久々にワクワクする感じが蘇ってくる。「いける!」次のモーションに移行しようとした神鳥谷の顔面にさつきのジャブがヒットし、彼女をよろめかせた。チッ!力を込めた左フックが神鳥谷の右頬をかすめ、鋭い音を立てる。神鳥谷の顔に驚きが浮かび、さつきのパンチがかすめた右の頬には、真っ赤な擦過傷が生じていた。「ばぎゅ!」間髪を入れずミドルキック!さつきの会心のキックが、神鳥谷をガードごとロープまで吹き飛ばした。「ギシッ!」神鳥谷の背中がロープに食い込み、金具が耳障りな音を立てる。完全に神鳥谷の動きが止まった。「ウオォォ!」さつきの渾身のハイキックが神鳥谷の首筋に吸い込まれる。「ビジィィ」さつきの右足の甲が、神鳥谷のグローブに遮られ激しい打撃音を生じた。神鳥谷のバランスが大きく崩れる。「勝機!!」さつきが素早いステップで神鳥谷の懐に潜り込む。「バス!」神鳥谷の牽制のジャブがさつきの顔面を捕らえたが、もはやさつきの勢いを止めることなどできなかった。神鳥谷の脇の下に両腕が回る。「うっ!」神鳥谷の口から焦りの声が漏れる。後退して逃れようとしたが、神鳥谷の退路をロープが無情に塞いでいた。さつきはグッと体を密着させた。胸が触れ合い、神鳥谷の早鐘のような鼓動が直に伝わった。神鳥谷が必死にもがく。「ふうぅうう」さつきが気合いをため、膝を蹴り上げようとした瞬間、激しくコングが打ち鳴らされ、2ラウンドの終了を告げた。
 さつきが神鳥谷の首に回していた両腕を離すと、神鳥谷の体からふっと力が抜ける。彼女と目が合った瞬間、さつきはハッとした。神鳥谷が笑顔を浮かべていたのだ。かろうじてゴングに救われたという安堵の笑顔ではなく、ワクワクする気持ちを抑えられないといった笑顔だ。さつきは今までこんな笑顔を見たことがなかった。さつきの顔にも笑顔が浮かぶ。「信じらんない!」自分自身の思いがけない反応に、さつき自身が驚いていた。おそらく今までのさつきなら、笑顔など浮かべるはずはない。十中八九、いや100パーセント怒りがこみ上げ、次のラウンド相手を殺す気で猛攻をかけるだろう。「うん!そうだよね。」この命のやりとりをするようなゾクゾクするような快感。これが自分が格闘技にのめり込んだ原点だったはずだ。「あんたも、そうなんだね!!」神鳥谷もその感覚を、今さつきが感じている感覚そのものを感じているのが伝わってきた。神鳥谷が笑顔を浮かべたまま、右のグローブを胸の高さまであげた。さつきも右グローブをあげ、お互いのグローブを軽く交わらせた。
 
 試合は完全に膠着状態となった。お互いが相手の攻撃を見切っている以上、どれだけ激しく打ち合っても、決定的なダメージを与えることはできない。しかしこの局面では、多彩な技を持つさつきの優位は覆らなかった。さつきは積極的にキックを放ち、神鳥谷のバランスを崩しにかかる。「シュン!」さつきの鋭いキックが空気を切り裂く。「ビジィッ!」フットワークではかわしきれなくなった神鳥谷は両腕でかろうじてガードする。神鳥谷の両腕には、度重なるダメージのため紫色の痣が浮き上がっていた。さつきの右足がキャンバスに着地する瞬間を待ちかまえたように、神鳥谷のボディフックがさつきのレバーに突き刺さる。「ブゥッ」動から静に転換する瞬間にヒットしたパンチはかわしようがない。さつきの脇腹にまた一つ赤い痣が開花した。もう4ラウンドもこんな調子だ。しかしこの期に及んでも、神鳥谷はボクシングの枠から逸脱しようとしない。さつきは正直、感心せずにはいられなかった。不利を承知で自分のルールを頑なに守ろうとする。神鳥谷というこの娘の精神的な骨格の太さを見た思いだった。「でも!勝つのは私だ!!」全身をゾクゾクするような快感が突き抜ける。 何とか隙が見られないか?もう少し!もう少しだ!!神鳥谷のガードが甘くなりかけている。観客は誰ひとり気づいていないが、度重なるさつきのキックのダメージに神鳥谷の両腕の耐久力が限界を迎えつつあることを、さつきは肌で感じていた。「バスッ!」さつきの顔が歪み、汗が飛び散る。右頬にヒットしたストレートの威力も軽くなっている。「狙える!」さつきの本能がそう告げた。さつきが全身を跳躍させた瞬間、一瞬早く神鳥谷が勝負に出た。素早いパンチがさつきの全身を包む。出鼻をくじかれたさつきは完全に防戦一方になった。「ガツィン」神鳥谷の強烈なストレートが顔面に食い込み、さつきの顔をねじ上げた。「ウゥグァ」思わず漏れそうになった声を必死で飲み込む。強烈なライトの光が視界一杯に広がった。左の瞼が無惨に腫れ上がり、視界が急速に狭まっていく。眉のあたりの皮膚が切り裂かれ、真っ赤な血がしたたり落ち、さつきの純白のスポーツブラを赤く彩った。「ドッ!」神鳥谷の左フックをかろうじてガードする。
 神鳥谷の攻撃に翻弄され、みるみるスタミナを削り取られながらも、さつきは冷静さを失ってはいなかった。神鳥谷の攻撃は左にシフトしつつある。さつきの左目が塞がれた以上、当然の作戦だ。「バスッ!」神鳥谷の右がまたヒットし、さつきはバランスを崩した。「ブッ!」さつきの首がねじれ、さっきより夥しい汗が飛び散った。「狙ってきている…」さっきまでの優勢が一転して、崖っぷちに追いつめられてしまった。しかし全く恐怖心はない。「この娘の攻撃は完璧だ!」それは認めざるを得ない。「バシッ」鋭いジャブをかろうじてガードする。神鳥谷の攻撃はさつきの死角を突き、打たれてはならないところを確実に狙っていた。神鳥谷の姿がすっと視界から消えた。さつきの頭脳が高速で回転し、神鳥谷の未来位置を予測する。「見えた!」さつきの中の何かがそう告げた。神鳥谷が左側でアッパーを狙うため、大きくかがみ込む姿が鮮明に脳裏に浮かぶ。KOを狙った必殺の一撃を叩き込もうとして牙を剥こうとしている!「ハアァァ!」さつきの右腕がすさまじい勢いで空気を切り裂く。「バゴォォ…ォ」激しい打撃音が場内に響き渡り、尾を引いて消えた。さつきの渾身の一撃が、完璧なタイミングで神鳥谷の左頬に抉り込まれ、そのまま彼女を吹き飛ばしていた。「ウブゥゥ…」神鳥谷の弱々しい声が大歓声にかき消された。キャンバスに仰向けになった神鳥谷が大きく喘ぐ。攻撃しようとした無防備な瞬間に、さつきのハードパンチを浴びたのだ。決してダメージが軽かろうはずがない。
 ここでグラウンドに持ち込めば、ギブアップを奪うのは赤子の手をひねるより簡単な局面だった。しかしさつきは全く動かない。観客から激しいブーイングがあがる。聞き難いヤジも耳に飛び込んできた。それでも、さつきはそういった声に全く動じなかった。ダウンしている神鳥谷をグッと見つめ、右グローブを突き出して手招きをした。神鳥谷がボクシングスタイルにこだわる以上、自分もキックにこだわりたい。そうしなければ勝ったことにならない!。純粋に勝つことだけを考えれば、愚劣この上ない考えだったが、さつきは自分の考えが正しいと信じて疑わなかった。そうでなければこの娘と、神鳥谷かすみと決着をつけたことにならない。「さあ!やるわよ!!」さつきは心の中で神鳥谷に叫びかけていた。ブーイングが急速に沈静化し、大歓声に変わっていく。
 さつきの叫びは確実に神鳥谷に伝わった。彼女の全身に力が漲り、ググッと立ち上がった。足元はふらついているが、目には生き生きしたものが蘇っている。グッとひときわ力を込めてファイティングポーズをとる。「ボックス!」レフリーが試合の再開を命じた。
 自分も神鳥谷も、力が尽きかけている。これは間違いのない事実だ。精神力だけではいかんともしがたい肉体的限界が目前に迫っていた。お互いが決定的な一撃をねらい、再び試合が膠着した。汗が飛び散り、美しい光の玉となってリング上を乱舞した。「ヒュン!」神鳥谷のパンチが目前をよぎる。さつきがバックステップを踏んだ。左足がしっかりとキャンパスをグリップする。「ヤアァァ!」鋭い気合いがさつきの口からほとばしりる。右足が大きくしなり、神鳥谷の側頭部に叩き込まれた…かに見えた。「ボギュゥ!」肉を抉る打撃音と同時にさつきの口と鼻から全身の空気が絞り出された。「うぐぇぇ」大きな呻き声が漏れるのをさつきは止めることができなかった。必死に歯を食いしばり、マウスピースがこぼれ落ちるのをこらえる。神鳥谷のフットワークはさつきのキックのスピードをわずかに、コンマ数秒以下というスピードで上回っていた。神鳥谷の強打にうつむいたさつきの目に、極端な角度でうち下ろされた右フックが、手首まで深々と腹に抉り込まれているのが映った。神鳥谷がそのままパンチを振り下ろす。グローブがさつきのベルトラインに入り込んだように見え、さつきの膝がガクッと崩れた。「ブシッ!」歯とマウスピースの間から、また空気が絞り出される。さつきは最後の力を振り絞って、クリンチした。両腕が神鳥谷の腰に回る。「ズルリ」さつきをあざ笑うかのように両腕が汗で滑った。さつきの右頬に神鳥谷のふくらはぎが振れ、そのままさつきはキャンバスに突っ伏した。目の前に神鳥谷の素足があった。さつきは無我夢中でその足にしがみついた。もうなりふりなどかまっている余裕など微塵もない。このまま何もしなければ、テンカウント以内に立ち上がれる望みはない。「ま、負けな…い!」必死に体を起こす。神鳥谷の両足を捕らえ、いやすがりついた。この情勢では、グラウンド扱いにして少しでも時間を稼ぐしかない。まださつきの戦闘本能は状況分析を停止しなかった。「エイティィン!」、「ナインティィン!」こんなにカウントって速かったのか。もう少し待ってよ…。「エブッゥ!」腹の底から重苦しいものがこみ上げてくる。さつきの口元から一筋の血の帯が溢れた。「トウェインティィン!!」グラウンド終了を告げるカウントが響いた。「スタンド!」レフリーの声に、さつきは神鳥谷にすがりつきながら、姿勢を立て直した。重い腕を必死に持ち上げ、ファイティングポーズをとった。
 「やられる!」さつきは覚悟した。しかし勝負を捨てたわけではない。「あと一撃だけだ」そう思う。あのパンチにかけるしかない。そうあの気に入らないネーミングの、三倉明美の顎を粉砕した呪われたパンチ…『桜島アッパー』しかさつきには残されていなかった。「ビシッッ!」神鳥谷のジャブが顔面を捕らえ、鼻血がしたたり落ちた。「ぐぼっ」さつきのガードをかいくぐり、右のストレートが脇腹に食い込み、さつきの体をよじらせた。血の味と、苦い不快な味が口いっぱいに広がった。神鳥谷の猛攻に圧倒され、さつきが後退する。「ドン!」さつきの背中がコーナーポストにぶつかった。勝利を確信した神鳥谷がもう一度大きく振りかぶり、あのうち下ろしフックを繰り出す。神鳥谷にとっては完璧なフィニッシュブローだったが、さつきにとっても待ちに待った一瞬だった。「ウオオッォ!」さつきが雄叫びのような声を上げ、渾身の力を込めた『桜島アッパー』を突き上げた。腕の振り、腰のひねり、かつて無いほど完璧な一撃だ。強大な破壊エネルギーの固まりが空気を切り裂く。「ゴボッオッ!!」凄絶な打撃音が会場一杯に響き渡り、さつきの全身を衝撃が貫いた。「ドガァッ!」間髪を入れず肉体が叩き付けられる音が響いたかと思うと、高々と突き上げられたさつきの右腕が、力無く前に垂れ下がった。神鳥谷の右のグローブがさつきの腹筋を突き破って胃袋を突き上げ、そのままの勢いでさつきをコーナーポストに縫いつけていた。

挿絵3


「ぶ、ぶぁぁ…」まるで腹の辺りで爆弾が爆発でもしたような衝撃が波紋が広がるように駆けめぐった。「地獄の波紋」が駆け抜けるにつれ、さつきは自分の全身の体細胞の一つ一つが石になっていくような感覚を味わった。波紋はついにさつきの脳天とつま先まで達し、さつきの体は完全に硬直した。ネットリとした冷たい脂汗が全身から吹き出す。「こ、こぉのぉ…」さつきは、体を貫いているグローブを必死に抜き出そうとする。「ウオオオォ!」神鳥谷が最後の力を込めて、更にグローブをねじ上げた。「ぐぶぅう…」さつきの目がかっと見開かれた。マウスピースがはみ出しかかる。グローブが肋骨の内側まで抉り込まれ、さつきの全身が急速に弛緩した。瞳に濁りが生じ、精気が消え失せていく。さつきの両腕がダラリと前に垂れ下がる。「ずぼっ」神鳥谷の右腕が抜き取られると、さつきは泳ぐように二、三歩前に前によろめいた。「エブッゥ…」さつきはこみ上げてくる不快感を必死にこらえる。さつきの両方の頬がはち切れそうなほど膨らんだ。真っ赤な固まりが急速に迫る!「ウウゥウッ…」さつきのふさがりかかった左目が、神鳥谷の右ストレートが迫ってくるのを捕らえたが、もはやさつきの肉体は、さつきの意識の統制を離れていた。「グギョッ!」さつきは神鳥谷の右ストレートが自分の左頬を砕く音を聞いた。首がねじれ、神鳥谷の姿が激しくぶれた。靄がかかったようになった視界の先に、自分のマウスピースが、真っ赤な尾を引いてリングの外に吹き飛んでいくのが見え、目の前が急速に真っ暗になった。

挿絵4


 「ドザアァア!」弛緩しきったさつきの体が、顔面からキャンバスに叩き付けられ、そのままキャンバスの上を滑り、動きを止めた。「う…ぁぁ…」衝撃でさつきの意識がわずかに蘇った。「うげぇえ…」腹の底から重苦しい苦痛がわき上がり、さつきを地獄の苦しみの世界に誘った。「ビグッ!」さつきの太股が痙攣する。「ブゥゥ…」さつきは自分の目の前に、血反吐の海が広がっているをかろうじて認識した。「ゲブゥッ!ごぼっ、エゴッ…」惨めな呻き声と同時に、さつきの無惨に腫れ上がった口からもっと大きな血反吐の固まりが絞り出され、さつきをむせ返らせた。さつきのスポーツブラが、主の血をたっぷりと吸い込み、急速にその身を真紅に彩っていった。「ま、まけて…たまるかぁ!…」さつきの闘争本能が叫んだ。全身に力を込める。しかし思い切り伸びきった両手足には、もはやほんのわずかな力すら入らなかった。まるで巨人の足に踏みつぶされ、全身がメリメリという悲鳴を上げているようだ。「ぐぅおぉぉ!」さつきはかろうじて首をもたげた。腫れ上がった唇の左の端から、赤い糸が滴った。「セブン!」カウントが耳にはいる。「だめだ!このままじゃ立てない!」全身に熱いものが駆けめぐった。「エイト!」さつきの肩が上がった。スタミナなどかけらも残っていない。今、さつきを動かしているのは、格闘家としての意地だけだった。目の前にカメラを構えたカメラマンが群がっている。彼らが「ある一瞬」を待ちかまえて、さつきにカメラを向けていることは明白だった。その姿はまるで死にかかった獲物に群がるハイエナのように、さつきには思えた。「負けるってこんなことなのか…」急速に薄れかかった意識のなかで、さつきはストロボの閃光が自分を貫いたように感じた。力尽きたさつきの目が、音を立てたように白目を剥く。「バジャァ!」失神したさつきの顔面が血反吐の海の中に沈み、真っ赤なしぶきを跳ね上げた。真っ赤な海の中が激しく波立った。赤い流れが一筋生まれ、まるで生きているかのように、蛇のようにくねりながらリングの外にしたたり落ちていく。さつきは右腕を一度だけビクッと痙攣させるとそのまま動かなくなった。

 『……どう?私の気持ちが分かった?』暗闇の中から声がする。「誰?誰なの!?」さつきは叫んだ。『私のことを覚えていないの?』声に怒りがこもっている。「隠れてないで出てきなさい!」身構えたさつきの前に現れたのは、顎を砕かれて顔をひしゃげさせた三倉明美だった。レモンイエローのリングコスチュームが鮮血で真っ赤に染まっている。「あぁぁ…」さつきの口から悲鳴ともつかない声が漏れる。『遊び半分で、無様に叩きのめされた人の気持ちが分かった?』三倉が続けた。「でも…でも…」何か言い返さなきゃ!そう思ったが、全く言葉が出なかった。『そう。あなたに弄ばれて殺されたあのときの蛙の気持ちがね…』「なんでそんなこと知ってるのよ!」さつきの声は悲鳴に近かった。「あれは、友達が殺したのよ!わたしはなんにも…」三倉がネットリした、恨めしそうな声でさつきの言葉を遮った。「でもあなたは助けてくれなかった…」「やめてぇ!」さつきは耳を両手で塞いで駆けだしていた。三倉の声が後からついてきて離れない。「あなたは、残酷な人。楽しみで人をたたきつぶせるひと。」振り返ったさつきの目の前に、今までキャンバスに沈めてきた選手たちが無惨な表情でさつきを見つめていた。虚ろな、それでいて恨めしそうな表情だった。さつきは体の中で何かが爆発したように感じた。
 
 「やめてぇぇぇ!!!」さつきは自分の叫び声にハッと我に返った。視界がだんだんクリアーになっていく。目の前の黒いものが次第に輪郭を結び、会長の顔になった。「気がついたか!」会長の声が聞こえる。「私…」思うように口が動かない。意識が戻るにつれ、体をバラバラにされるような苦痛がさつきの全身に蘇り、さつきを悶絶させた。「エッブッ!ゴォブッ!」なんて惨めな声なんだろう…さつきはそう思った。腹をさすろうとして右手を動かそうとしたが、右手はベッドの上からピクリとも動こうとしなかった。「なにもしゃべるな!おまえはよくやった。だから今は何もしゃべるな」竹中会長が叫ぶようにいった。やられたのか…。それも無様に…まるで、私が今まで弄んだ選手みたいに……「鎮静剤を打っておこう。」聞き慣れない声がした。さつきは声のした方を見ようとしたが、ふさがった左目に、白衣がちらりとひらめいただけだった。腕にチクリという微かな痛みを感じたかと思うと、さつきの意識は再び暗闇に閉ざされていった。

 さつきがどうやら流動食から「卒業」できたのは、それから1週間もたってからだった。退院自体は早かったものの、一撃KOの破壊力を秘めた神鳥谷のパンチを2発も喰らった内臓が、食べ物を受け付けなかったのだ。三倉たちの「亡霊」はさつきが眠りに落ちると毎晩のように現れた。しかしさつきは彼女たちと面と向かって対話できるようになった。難しいことを語り合うわけではないが、無惨に破れた選手の気持ちが分かる気がした。世界中が注目するあの大舞台で、無様にも血反吐の海に沈む…これ以上無様な敗北は考えにくかったが、相手を、神鳥谷かすみを憎む気持ちは微塵も存在していなかった。全力を尽くして負けたんだもん。後悔なんかしていない!胸を張ってそういうことができた。幾晩かこんな「対話」を繰り返すうちに、だんだんと「亡霊たち」の表情が、試合前の顔に戻っていくのが感じられた。夕べなどは、あの三倉明美が、グラビアのトップページで見せていた笑顔で微笑んでいた。

 さつきがジムの扉を開けたのは、三倉が微笑んでくれた次の日だった。ドアの開く音に竹中会長が振り返り、笑顔で顔をくしゃくしゃにした。「さつき!」それ以上声が出なかった。さつきは会長のところにまっすぐ歩いて行った。「会長。」竹中の目を見上げながらさつきは言った。「私、キックを引退します。今まで本当にお世話になりました。」会長は表情を変えなかったが、瞳に落胆の色が浮かんだことにさつきは気づいていた。「そうか…残念だが仕方ないな。」会長が言った。「ええ!ですから、これからボクシングを教えてください!」弾むような声で言うと、さつきはペコンと頭を下げた。会長が一瞬呆気にとられたような表情を見せ、次の瞬間さつきを高々と抱き上げていた。「きゃあ!」さつきが明るい声で悲鳴を上げた。「よおし!今度は同じルールで神鳥谷とやろうな!」会長のうれしそうな声に、さつきの目が潤んだ。「はいっ!次は『桜島アッパー』をお見舞いしてやりますよ!!」さつきの負けじ魂が復活してきた。さつきと竹中会長の笑い声がジム一杯に広がる。表では桜島がいつもと変わらぬ姿で、さつきの新しい旅立ちを、伊集院さつきのボクサーとしての第一歩を見守ってくれていた。