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(後編)

麻里子のあまりにも鮮烈なダウンに司の表情が固まった。
カウントが入っていく。麻里子は動かない。仰向けで両腕が上がりばんざいをしたままリングの上に沈んでいる。
失神しているのか?失神していてもおかしくない強烈なパンチだった。たとえ失神はしていなくてもカウント内に立ちあがることなんて不可能だ。
でも、麻里子はよくやった。ボクシング部でもっとも強い実力者の亜美をKO寸前まで追い詰めたんだ。その証拠に亜美はコーナーに背中をもたらせて、両腕をロープで掴んでいる事でやっと立っていることが出来る状態だった。
麻里子が立とうとしていた。司は自分の目を疑った。しかし、麻里子は懸命に立ちあがろうとしている。
そこだ。もう少しだ。
思わず心の中で応援してしまった。
カウント9で麻里子は立ちあがる。


なんとか立つことが出来た。だが、足ががくがく揺れている。頭がふらふらする。
ここでラッシュをかけられたら終わりだ。
だが、亜美は止めを刺しには来なかった。いや、来ているのだがその足取りが異常なまでに遅いのだ。亜美も限界なんだ。
麻里子は足を前に出した。二人ともふらふらした足取りで接近して行った。
ついにパンチが届く距離まで接近した。麻里子は右ストレートを放つ。亜美も左ストレートを放った。
グワシャァッ!!
両者の腕は交錯し、お互いの顔面にパンチがめり込まれている。亜美の左拳が頬に食い込み麻里子の顔が醜く変形している。亜美の顔面も麻里子の右拳が頬に食い込んで醜く変貌していた。
クロスカウンターの相打ちをきっかけにまた二人のパンチの応酬が続いた。
亜美の右ストレートが麻里子の顔面にぶち込まれる。
ズドォォッ!!
「ぶふぅっ」
麻里子が唾液を吐く。
ドゴォォッ!!
今度は麻里子の右ストレートが亜美の顔面にぶち込まれた。
「ぐはっ」
亜美の口からも唾液が漏れる。
二人がパンチをお互いの顔面に当て続けた。そして、唾液が宙に吐き出される。
カーン
ゴングが鳴り、第3R終了した。


麻里子が椅子にどさっと座った。麻里子は疲れ切った表情で天を見上げる。京香は麻里子の口の前に両の掌をさっと差し出した。麻里子がその上にぺっとマウスピースを吐き出した。マウスピースは唾液に包まれて落ちてきた。手に暖かい感触が伝わってくる。嫌な匂いが京香の鼻を襲う。しかし、唾液の悪臭は今までに何度も嗅がされていた。だからは唾液の匂いに対する抵抗力はついてきていた。京香は次に麻里子の顔をタオルで吹こうとする。麻里子の口の周りは唾液がべっとりとついていてうっすらと輝いている。そして、やはり匂う。京香は麻里子の顔を拭いた。だが、麻里子の顔から発せられる臭みが消えることはなかった。麻里子は疲れ切った表情で相手コーナーを見つめていた。
こんな状態で戦えるのだろうかと京香は思った。
「亜美になんか絶対負けるもんか・・死んだってまけるもんか!」
麻里子が唇をゆっくりと動かした。彼女の目はまだ死んでいない。
麻里子はまだ大丈夫だ、そう京香は思った。


亜美が椅子にどさっと座った。亜美の顔はきらきら光っていた。唾液だ。亜美の顔一面には唾液が付いているんだ。ものすごい嫌な匂いがしてくる。雅美は顔をしかめた。
亜美は臭いと思わないのだろうか?
「亜美」
「ん?」
亜美がぼんやりとした目で雅美を見た。
「ううん何でもない」
雅美は亜美の顔をタオルで吹いた。亜美の顔についた唾液と血がとれてもの匂いが消えることはなかった。
「勝つのはあたし。勝つのはあたしなんだ」
亜美の言葉に雅美はこの勝負に対するものすごい執念を感じた。
そして、第4Rのゴングが鳴った。


麻里子の走るスピードはすっかり遅くなっていたが、懸命にダッシュして亜美の元に向かって行った。亜美も遅いスピードだが、ダッシュして向かってきた。
バシッ!
亜美のパンチが麻里子の顔面に決まった。麻里子もすぐにパンチを返した。パンチの打ち合いが繰り広げられていく。女の意地と意地がぶつかり合う。
亜美の右ストレートが麻里子の顔面に当たった。
「さっさと倒れなよ!弱いんだからさぁ!」
亜美が言った。
「勝ってなこと言わないで!亜美こそ一度負けてその最悪な性格直した方が良いんじゃないの!」
そう言って麻里子は亜美の顔面に左右のワンツーを返した。
「あんたなんかがあたしに勝てるとでも思ってんの!」
「その天狗になった鼻をへし折ってやる!」
二人の言い合いは続いた。だが、次第に疲れがでてきて、二人は手と口を休めた。
「はぁはぁ」
二人の息が粗い。麻里子が口を開いた。
「どうせ私に嫉妬してるだけでしょ。やめときなよ、お兄ちゃんが亜美の相手なんかするわけないじゃない」
亜美の顔がみるみる赤くなっていくのが分かった。左右の拳がぷるぷる震えていた。
麻里子は言ってはいけなかった言葉を口にしてしまったことに気付き、思わず「あっ」と声を上げた。
亜美の顔は鬼のようだった。鬼のような怖い形相で亜美は麻里子に突進して行った。麻里子は亜美の闘志に押されて、両腕でガードを固めた。
亜美が右ストレートを放った。亜美の右ストレートを麻里子はガードする。だが、亜美のパンチはガードを貫いて、麻里子の顔面にめり込んでいった。
グキャァァッ!!
「うぶうっ!」
麻里子の体が吹き飛ばされていく。亜美はすぐに麻里子の元に迫っていった。
グワシャァッ!!ズドォォッ!!ドボォォッ!!ドゴォォッ!!
亜美の怒涛のパンチの嵐だった。怒りに満ち溢れた亜美の左右の拳が麻里子の頭を四方に打ち飛ばし続ける。麻里子の顔からは血が次々と吹き出される。麻里子に反撃の余地はなかった。亜美のパンチは麻里子の頭を大きく吹き飛ばす。そして、戻ってくると同時に亜美の次のパンチがまたも麻里子の頭を吹き飛ばした。それは麻里子が倒れるまで続く無限地獄だった。麻里子が出来ることはキャンバスに沈むことだけだった。それ以外のことは何も出来なかった。ただ、亜美のサンドバッグと化して打ちのめされるのを待つだけであった。
そして、亜美のパンチの連打が終わりを迎えた。亜美のパンチが麻里子の顎を襲う。
グワシャァァッ!!
妹挿絵1
亜美が右拳を天に向かって突き上げていた。
麻里子の両腕はだらりと下がっていて、顔は真上を向けられていた。渾身の力を込めて放たれた亜美のアッパーカット。吹き飛んでいくマウスピースはない。そんなものは先程の連打でとっくに吐き出されていた。麻里子の口から真っ赤な血が上空へ昇っていく。
麻里子の体がロープに当たり前に崩れ落ちていく。麻里子がキャンバスに倒れ伏した。麻里子はうつ伏せの状態で両腕を体にぴたりとくっつけている。そして、お尻が上がり、芋虫のような格好になった。


ついに・・ついに終わったんだ。これであたしの勝ちだ。
亜美はコーナーに背中をかけながら勝利を確信していた。
麻里子はキャンバスに平伏したまま、ピクリとも動かない。当然だ。あたしがありったけの力を込めて打ったパンチを先程のラッシュで少なくとも十五発はその顔面にぶち込んだのだから。
しかし、亜美の喜びに満ちた表情が崩れた。麻里子が立ってきたのだ。
な・何で立ってこれるの?
亜美の心が動揺していく。
試合が再開された。麻里子はその場に突っ立ったまま動かない。よく見ると麻里子の目は虚ろだ。目がとろんとしている。
・・・立ったといってももう何が出来るっていう状態じゃない。
亜美の心が落ち着きを取り戻した。
亜美はダッシュして麻里子に向かって行った。亜美は渾身の力を込めて右ストレートを放った。
グボォォォッ!!
亜美の右ストレートが麻里子の顔面に決まる。完璧な手応えだ。自分の拳がずぼっと麻里子の顔面にめり込んでいき、確かな感触が右手に伝わってきた。そして、その手応えを証明するかのように麻里子の顔面からとても鈍い打撃音が響いてきた。
麻里子の顔が亜美のグローブからいくつもの赤い糸を引きながら離れていった。先程くわえたばかりのマウスピースがまた口の中から吐き出されていく。
麻里子の体が後ろに吹き飛んでいった。
亜美は冷静に麻里子の動きを見ていた。
・・これで完全に終わった。でも、念の為・・
麻里子の体がロープに当たった。ロープに振られて麻里子の体が前に崩れ落ちていこうとした。
しかし────麻里子の体は前に崩れないで止まった。
亜美の右拳が麻里子の顔面にめりこまれたからだった。亜美は吹き飛んでいった麻里子との距離を詰めて、さらにパンチを放っていた。
両腕が下がっていて無防備の麻里子の顔面には亜美の右拳がぐぼっととめり込まれている。ロープと亜美の右拳で挟まれている麻里子の体が下に沈んでいった。
今度こそ終わりだ。
亜美は自分の勝利を確信し、コーナーへ戻って行く。


立たなければ・・
何故か頭の中でその言葉が頭の中で浮かんでくる。その意志に従って自然と体が立ちあがれる。
麻里子はカウント9で立ちあがった。
麻里子に話しかけてくるレフェリーが三人にぼけて映る。
私は今ここで何をしているんだっけ?
レフェリーが麻里子から離れると今度は両手に赤いものをつけた女の子がこちらに向かってきた。
亜美だ。
亜美がこっちに向かって来てるんだ。亜美の姿も三人あった。どれが本物?
グワシャッ!!
麻里子の頭が吹き飛ばされる。真ん中が正解みたいだ。
三人でくるなんてずるいよ・・
また意識が無くなりかけてきた。
カーン
ゴングの音が聞こえた。
「麻里子!」
京香の声だった。京香は麻里子の体を抱きかかえてコーナーへ連れて行った。京香は麻里子を椅子に座らせる。
麻里子はコーナーに背中を垂らし、ぼんやりと天井を見つめていた。
麻里子の顔は両瞼、両頬、そして唇がぱんぱんに腫れ上がっていた。小さかった麻里子の顔が今ではすっかり大きくなってしまっている。
「まだ戦えるの?」と京香は聞いてきた。
「うん・・」
麻里子は小さく首を縦に振った。
麻里子の意識が次第に回復してきた。
そうだ・・私は今、亜美とボクシングで戦っているんだ。勝たなきゃ!
視界が元に戻ってきた。
第5R開始のゴングが鳴る。
麻里子はゴングが鳴ると同時に亜美の元に向かって行った。向かっていくスピードはとてもスローだった。でも、全速力で向かって行った。亜美も麻里子の元にダッシュして向かって来ていた。幾分体力が戻ってきている亜美の方が走るスピードは速かった。二人の距離が接近し、麻里子と亜美はお互いパンチを放っていった。
ズドォォッ!!
炸裂したのは亜美のパンチだった。麻里子の体が後ろへふらふらと後退していく。亜美がさらにパンチを放つ。
ドガァァッ!!
亜美のパンチが麻里子の顔面にヒットし、麻里子の頭が吹き飛ぶ。さらに亜美はパンチを放つ。
グワシャァァッ!!
「ぶへえぇっ」
マウスピースが宙に舞う。マウスピースを吐き出したのは亜美の方だった。麻里子のアッパーカットが亜美の顎を吹き飛ばした。亜美がリングに沈んでいく。


亜美は大の字で倒れている。両腕を斜め上に上げ、足は両方ともくの字になって右に向けらていた。亜美は気持ちよさそうに倒れたまま動かない。だが、カウント5で亜美の上体ががばっと起き上がった。亜美は立ち上がってきた。麻里子はゆっくりと前に進む。亜美はその場に立ち尽くしたまま動かない。目が宙をさまよっているみたいだ。
そこを動かないで、とどめのパンチを当てるんだから・・
麻里子は亜美の目の前までやって来た。そして、残った力を振り絞って右腕を後ろに引いた。
その瞬間、麻里子の顔面に赤い弾丸が突き刺さった。
ズドォォゥゥッ!!
亜美の右ストレートだった。麻里子がパンチを打とうとしたまさにその瞬間に狙い済ました亜美の右ストレートが麻里子の顔面にぶち込まれた。亜美のパンチで麻里子がどれだけのダメージを負ったのかは麻里子の顔面に亜美の赤いグローブがめり込んでいて、表情が隠れてしまったためによく分からない。しかし、麻里子の顔面から発せられた打撃音がもの凄い音だったことだけは間違いなかった。
亜美が右拳を引いた。現れたのは麻里子の潰れた顔面。
亜美がにやりと笑った。しかし、次の瞬間、亜美の表情が思いっきり歪んだ。麻里子のアッパーカットが亜美の顎を捕らえていた。麻里子がそのまま右拳を突き上げた。亜美の口からマウスピースが飛んだ。亜美が両腕をばんざいしながら後ろに倒れた。
麻里子が右腕を高く上げたままその場に立ち尽くした。麻里子の表情は弛緩していた。目がとろんとしていて、口がぽかんと開いている。麻里子の口から白い物体がキャンバスに落ちていった。
ボトッ!!ボトッ!!ボトッ!!
二度バウンドして止まる。赤く染まったマウスピースが二つリング上に落ちている。
バタンッ!!
今度は麻里子が前のめりにキャンバスに沈んだ。
ダブルノックダウンとなった。
「ワン、ツー」
二人はキャンバスに沈んだまま動かない。
「スリー、フォー」
先に動いたのは亜美の方だった。上体を起こそうとしている。その直後に麻里子の体も動き始めた。
カウントが進む。二人は立ち上がろうと必死になって体に力を入れる。
「シックス、セブン」
この時点で二人に差は無い。上体は起き上がり、立ち上がる寸前まできている。しかし、カウント9になったところで二人の明暗が分かれた。両足でもってリングの上に立ちあがった者と力尽きて血反吐を吐きながらキャンバスに沈んでいった者。
「テン」
テンカウントが数えられ、試合が終わった。立ちあがってきたのは麻里子だった。亜美は力尽きてキャンバスに沈んでいる。
妹挿絵2
「やったね、麻里子!」
京香の高ぶった声がリングの上に突っ立ったままの麻里子の耳に届いた。
「えっ私がどうしたの?」
麻里子は京香の方に顔を向けてそう口にした。
「何言ってんのよ、亜美に勝ったんだよ!」
麻里子の顔から満面の笑みが出た。
「私が亜美に勝った・・やった!勝ったんだぁ!」


ひんやりとした空気が亜美の腫れ上がった顔面に染みた。時刻は六時過ぎ。亜美は雅美と共に学校から家に帰る途中だった。隣にいる雅美は励ましの言葉を送り続けていた。
「元気出しなよ」
 「慰めの言葉なんていらない」
 「もう意地張ってぇ」
 「意地なんか張ってないよ」
 「かわいくないんだから」
 「ちょっと慰めるか黙るかどっちかにしてよ!」
 怒鳴り声を出して亜美がはっとした表情をした。
 「な〜んだ、やっぱり慰めて欲しいんじゃない。意地張っちゃって。でも、そこが亜美らしいけどね」
 そう言って雅美は笑顔を作った。亜美も大声を出してつい本音を出したため重かった気分が少し和らいだ。
 「まあ来年もあるんだしさ。来年麻里子に勝ったら告白するっていうのもいいじゃない」
 「だから弓長コーチなんかどうも思っていないって」
 と言ったが、雅美はにたにたした表情をしている。
 やれやれといった表情を亜美はした。
それに麻里子に勝って告白したらかえって逆効果じゃない。そう思って言おうかと思ったけど、疲れるだけだから止めといた。
 でも、来年インターハイに優勝することが出来たら弓長コーチに告白するのもいいかなって思った。そのためには麻里子に勝って学校代表に選ばれなきゃ。
 うざったいやつだけどライバルとして認めてやるか─────
 「何か言った亜美?」
 「何でも無いよ」
 そう返事をした亜美の表情はさばさばとしていた。


コンビニを出ると心地よい風が吹いてきた。ポカリスエットのペットボトル500CCとビール三本を買い終えて、後は家に向かうだけだ。
家まで続く暗い路地を歩いている司の瞼の下の瞳にはまだ今日の麻里子と亜美の死闘が焼き付いていた。
まさか麻里子があそこまでやれるとは思いもしなかった。最後、麻里子が立ってきたときは思わず目頭が熱くなっていた。もう俺の手を借りなくても麻里子は一人でやっていけるはずだ。
そう思うと嬉しい反面、ちょっぴり寂しくも思えた。
家に着いた。司は玄関のドアを開き「ただいま」と言った。
だが、返事は返ってこなかった。いつもなら麻里子の「おかえりなさい」という声が返ってくるはずなのだが。まだ麻里子は帰ってきてないのだろうか?
司が居間に入った。居間の真ん中にある円いテーブルに麻里子はいた。あぐらをかいて座ったまま麻里子はすやすやと眠っていた。テーブルにほっぺたをつけて眠っている麻里子の寝顔はとても気持ちよさそうに見えた。
「頑張ったもんな」
司はそう言って麻里子の肩にそっと毛布をかけた。